第一インターナショナルとは何か?【田所輝明】

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ここでは昭和2年出版の田所輝明の著作『インターナショナル』より「第一インターナショナル」の箇所を紹介します。

 

 

『インターナショナル』について

田所輝明は北海道出身で早稲田大学を中退後、共産党に入会し、12年に第一次共産党弾圧事件で入獄、福本和夫の福本イズムに反対して日本労農党に入党している。昭和9年、35歳で没している。

『インターナショナル』は田所氏の社会主義思想に基づく感想によるところが大きいが、比較的公平に描かれている。もちろん田所氏は他の著者に見られるようなマルクスの陰謀説は唱えられていない。しかし、フランスの第一インターナショナル支部については秘密結社の匂いは嗅ぎつけていたようではある。

◆ 成立まで

1862年にロンドンで万国博覧会が開かれた。そのときフランスの資本家は340人の労働者を技術見習いのためにロンドンに派遣した。ドイツの労働者も多数派遣された。この独仏の労働者にたいする歓迎会がイギリスの労働者によって催されたが、これらの集会において国際的協力が協調され、パリとロンドンに国際連絡委員会が設置された。

その後、1863年、64年に国際集会がロンドンに開かれた。この集会は1830年来、ロマノフロシアがポーランドに加えつつあった白色テロに対する抗議の集会であったが、それはインターナショナルの創立集会となった。

ロンドンでの発足集会

1864年9月28日、国際集会はロンドンのセントマーチンズホールにおいて、英・仏・独・伊各国代表によって開かれた。集会はイギリスの組合幹部オジャーとクリーマーの主催により、エドワード・ビーズリ教授の司会のもとに開かれた。各国代表間にロマノフ政府への抗議文が可決された後、国際労働団体組織に関する討論が行われ、満場一致をもって国際団体として国際労働者同盟の組織を決議し、かつ20名の宣言規約起草委員を選任した。この委員にはイギリス側からオジャー、クリーマーら、フランス側からはル・ルーベ、ボスケら、イタリア側からはウォルフ(マッツィーニの秘書)ら、ドイツからはエカリウス、マルクスらが入っていた。この委員会はさらに30名の委員を追加し、都合50名をもって臨時委員会を組織し(英21、独10、仏9、伊6、波2、瑞西1)、本部をロンドンに置いた。

イタリア愛国共和主義vsカール・マルクス

10月初旬に委員会が開かれて宣言規約の協議に入ったが、この日イタリア代表ウォルフから規約草案が提出された。この草案はイタリアにおいてマッツィーニ派が愛国共和主義運動の機関として組織した『イタリア労働者同盟』の規約と同一のものであって、すなわちインターナショナルを愛国共和主義のクーデターのための陰謀的秘密結社たらしめんとするものであった。

このインターナショナルを社会主義のための公然たる大衆的闘争機関たらしめんとするマルクス始め多くの委員によって反対され、ついに否決された。

その後種々なる曲折を経て結局23の提議を基礎として宣言および規約の起草はマルクスに一任された。かくしてマルクスの起草にかかる『国際労働者同盟創立宣言』および『規約』の草案は11月中旬、機関紙『The Bee-Hive』に発表された(最初の計画に敗れたイタリア側は全部脱退した)。

創立宣言はまず数字をあげて資本主義の発表と共にいかに各国の労働者階級は無知と堕落と困窮と隷属の中に遺棄されたかを示し、その解放への道と、インターナショナル成立の意義をこう説いている。

それゆえに政治的権力の××は今や労働階級の偉大なる義務である。…労働階級は成功の一要素を有する――すなわち彼らの大いなる数これである。しかしながら大衆は一つの組織が彼らを結束し、そして賢明な指導が彼らに与えられるときに始めて、支配階級を圧迫しうるのである。既往の経験は、すべての自由のための闘争において、各国の労働者は団結し、激励して牢固たる相互の扶持をなさしめうる所の同士の同盟を等閑にしたことがいかに連絡なき企図の失敗によって労働者を懲らしめるに至るかを我々に示した。ここに、これが緊急の要を知って、各国の労働者は1864年9月28日に、セントマーチンズホールの公集会において国際同盟を創立したのである。

××は発売当時の検閲

また規約はその全文において労働醞郎の社会主義的原則を明示している。いわく

労働階級の解放は労働階級みずからによって制取されなければならぬ。労働階級解放の闘争は、階級的特権と独占を目的とする闘争ではなく、平等の権利および義務と一切の階級的支配の××を目的とする闘争である。 

◆ 会議・活動および解散

国際労働者同盟はその宣言規約を発表したのち、ロンドン本部は各国の労働団体に加盟を勧誘した。1867年までに英国では15の組合がジュネーブ(瑞)では5つの労働団体が加入し、ベルギー、スペイン、アメリカにも支部が設立され、またリヨン(仏)の織物工およびライプツィヒ(独)の印刷工のストライキが本部の援助のもとに行われた。

ジュネーブローザンヌブリュッセル大会

1865年9月ロンドンに協議会が開かれ、1866年9月ジュネーブで第一回大会が60名の各国代表によって開かれた。大会は宣言規約を討議し、これを正式に決定した。大会後、フランスに青銅工の、イギリスに裁縫工の大ストライキが起こったが、いずれも本部によって活発に指導された。1867年9月ローザンヌに第二回大会、1868年9月ブリュッセルに第三回大会が開かれた。

後者においては生産機関の社会化が決議され、折から独仏戦争の危機に鑑み、国際戦争に対しては当該国の労働者はストライキをもって防止すべしとの案が可決された。後年インターナショナルの癌となったバクーニン派のアナーキストが加盟したのはこの年である。

バーゼル大会

1869年9月バーゼルに第四回大会が開かれ、相続権問題でマルクス派とバクーニン派の最初の対立闘争が行われた。バーゼル大会後非常な圧迫が加わったが、インターナショナルはこの圧迫の中にますます成長した。1870年7月ついに独仏戦争(普仏戦争プロイセン=フランス戦争)が勃発した。この戦争は当面した交戦国支部は単に『国際戦争には総同盟ストライキをもって応じよ』という第三回会議の決議を執行し得なかったばかりでなく、さらに主戦と非戦の二派にさえ分裂した。

ドイツ支部

ドイツ支部ではリープクネヒト、ベーベル派は軍事予算に反対し、他派は『フランスの勝利はドイツ社会主義民主主義運動の破壊である』として軍事予算を支持した。ここにおいてロンドン本部はマルクスの起草にかかる宣言を発表して、フランスの侵撃者にして、ドイツの防衛者なるを認め、ドイツの労働者に防衛線より侵撃戦に転じるべからずと警告した。

フランス支部パリ・コミューン

しかるに、フランスの各支部では猛烈な非戦運動が組織され、パリ支部は7月にドイツ労働者に対し戦争反対のために協力せよという宣言を発表し、8月にはマルセイユ支部はクーデターをおこした。かかるがゆえにフランス支部マルクスおよびロンドン本部の対戦態度に抗議の意を表するのは当然であった。

9月にフランス軍はセダンに大敗し皇帝は虜になった。フランスには共和国仮政府が布告され、パリ支部は平和の檄をドイツに飛ばし、ロンドン本部はマルクスの指導のもとに、ドイツ支部侵略戦争を防止すべく即時平和克服の運動を起こすべきことを、また各国支部にドイツの侵略政策反対運動の組織を指令した。反対運動は無数の投獄の犠牲を冒して行われたが、ドイツ軍はパリに進撃を継続した。

1871年1月休戦条約が成立し、2月講和条約が締結された。この条約によればフランスは巨額の償金のほかにアルザス・ローレンスを割譲せねばならなかった。パリ市民はこの不当の条約と、それを結べるブルジョア仮政府の無能に憤慨しついに武器をとって立った。すなわちパリ労働者を中堅とする国民軍によってかの有名なパリ・コミューンのクーデターが起こされたのである。かくて全インターナショナルの援護のもとに、『無産階級独裁のほのかな曙』なるパリ・コミューンは樹立されたが、その内部の不統一のために、このパリの労働者の支配は2カ月にして『血の週間』の市街戦の後にたおれた。

パリ・コミューン没落後

パリ・コミューンの没落とともに反動勢力は一時インターナショナルのうえに襲いかかった。ドイツ支部は混乱して無能力となり、フランス支部のすべてはクーデターの犠牲となり、イギリス支部労働組合主義の本質からパリ・コミューンのごとき革命行動に反対し、また当時盛んに行われていた団結禁止法撤廃運動上の便宜から、この悪魔のごとく、逆宣伝されるインターナショナルから脱退した。

インターナショナルの重要構成なる英仏独支部の事態はかくのごときであるから、インターナショナルはほとんど無力になってしまった。かかる落日の形勢にあるとき、しかも内部においてマルクス派とバクーニン派との闘争はいよいよ熾烈を加えてきた。

バクーニン派は普仏戦争に対するマルクス派の態度をもって『偏独的態度』として攻撃し、インターナショナルの中央集権に反対した。

ハーグ・ジュネーブフィラデルフィア大会

これがため1871年9月ロンドンに協議会が開かれ協議会はバクーニン派処置の全権を本部に与えた。1872年9月ハーグに第五回大会が開かれ、大会にはバクーニン派から『前年のロンドン協議会の決議否認および専制的本部の廃止』案が提出されたが否決され、バクーニン派は除名された。

そして本部をニューヨークに移すことが決議された。ここにおいて実質的に第一インターナショナルは死んだのであった。その後1873年9月に第六回大会がジュネーブに開かれて再組織を企てたが物にならず、ついに1876年7月15日のフィラデルフィア大会において正式に解散された。バクーニン派の新インターナショナル組織も失敗し、また1877年にベルギーのヘントにマルクス派とバクーニン派の妥協のための国際社会主義大会が開かれたが、これも物にならなかった。

◆ 結語

思うに第一インターナショナルは資本主義の未熟な国際化から自然生長的に生まれたものであった。産業革命が早くから完了し、自由主義の盛んな英国の労働者は、政治的要求は自由党に吸収されみずからは労働組合運動に没頭しており、その思想は労働組合主義であって意識的社会主義の要素を欠いていた。産業革命が遅く、しかも急進ブルジョアプロシア軍国主義に圧迫されていた当時のドイツの労働者は独立して『民主主義獲得』のための政治運動を組織し最も社会主義的であった。

絹物業、宝石業などの小産業のフランスの労働者の思想は当然に小ブルジョア思想――無政府主義であったクーデター暴動を事としていた。かかる傾向を合流せしめたものが第一インターナショナルであった。

したがってそれは経済闘争と政治闘争とを分化せず、組合と政党の混合型であって、その性質はそれぞれの国において違って認識されていた。イギリスにおいては組合運動とドイツにおいては政党運動と、フランスにおいては陰謀の結社と。かかるが故に第一インターナショナルは当時の客観的状態からして大なる長き発展は求めることは出来なかった。しかし、階級闘争の戦士の訓練と、マルクス主義の国際的普及とにその偉大な功績を見る。

【コメント】

第一インターナショナルは当初のイタリアのマッツィーニ派とマルクスの対立、マルクス派とバクーニン派の対立と、議論は常にマルクス主義を中心に進められている。ユダヤ人のカール・マルクスという人物は、様々な写真からフリーメイソンのメンバーであることがうかがえる。少なくとも三点くらいは普通に確認できる。

田所氏はフランスの第一インターナショナル支部、あるいはパリ・コミューンに陰謀を感じ取っていたようだが、マルクスを含め、第一インターナショナルはイタリアの初期メンバーであったマッツィーニ派を含めフリーメイソンである。

フランス革命後のフリーメイソンの革命家たちの動向を読み取る上でも第一インターナショナルがどういった国際労働者同盟だったのか読み取っていく必要があると思います。

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