アメリカのユダヤ・ジャーナリズムの起源

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今回は昭和17年の神谷茂の著作『アメリカ・ユダヤ人問題』のなかの第6章アメリカにおけるユダヤ人の地位ー第4節ジャーナリズムとユダヤ人を引用したいと思います。一部分読みやすいように現代調に直しています。

 

 

アメリカのイディッシュ新聞のはじまり

まずイディッシュ語の新聞から述べよう。アメリカのイディッシュ・ジャーナリズムは1870年にヘンリー・ゲルソニーが発刊した『ユーディッシュ・ポスト』および同年カスリエル・サラゾーンが発刊した『ニューヨーカー・イディッシュ・ツァイトゥンク』の両週刊紙から生まれたといって差し付けえない。

両紙とも間もなく失敗して廃刊になったが、サラゾーンは2年後に週刊紙『イディッシュ・ガゼッテン』を発刊して成功し、それから更に1885年に至ってニューヨークで『イディッシュ・ターゲブラット』という日刊紙新聞を発行した。

移民とイディッシュ新聞

それはアメリカにおける最初のイディッシュ日刊新聞であると同時に、また世界における最古のイディッシュ日刊新聞であった。この『ターゲブラット』はまた『ジューイッシュ・デイリー・ニュース』とも称し、ユダヤ教正統派の色彩を持っていた。サラゾーンはロシア系ユダヤ人であった。

イディッシュ新聞は遅々たる発展を見せていたが、1880年代の末から90年代にかけてロシアにおける「ユダヤ人狩り」(ポグロム)の結果大量のユダヤ移民が入米したのと、当時アメリカでようやく勢いをえたマルクス主義やその他社会主義思想の影響によってにわかに大きな発展を来した。

新しい移住者たちは英語を知らなかったので、新来の土地アメリカの諸事情や故国の状態を知るためにイディッシュ語の新聞を必要とした。実際においてイディッシュ・ジャーナリズムは新しい移民をアメリカの地理、人情に順応させ、進んで彼らをアメリカ化させるための媒体となったのである。

新移民の中には有名な文筆家や評論家も交っていたので、イディッシュ・ジャーナリズムの発展に貢献する大所となるものがあった。

イディッシュ5紙

購買者は主としてニューヨークのユダヤ人であった。需要の拡大につれて新聞の数も急速に増加したが、その後漸時整理され、現在ニューヨークで『フォールヴェルツ』、『モルゲン・ジュルナール』、『ターゲブラット』、『トッグ』、『フライハイト』の5紙だけが残っている。

そのうち最大のものは『フォールヴェルツ』で、労働階級や中産階級の下層を読者にもつ中正社会主義的新聞で、シオニズムに対しては微温的な態度を採っている。『モーゲン・ジュルナール』は第2級の新聞で、政治的には共和党の立場を採り、ユダヤ教正統派系でシオニズムの色彩がある。『トッグ』は『デー・ヴァールハイト』ともいい、自由主義的、シオニスト的であるが、政治的には無色である。『フライハイト』はアメリ労働党および共産党の機関紙で、シオニズムに多く反対している。

廃刊となったイディッシュ新聞

廃刊となったイディッシュ新聞は極めて多く、長いものは十数年短いものは1、2年継続した。『イディッシュ・ウェルト』、『フィーラー』、『ハイント』、『ツァイト』、『アーベントブラット』、『テークリッヘ・プレッセ』、『イディッシュ・アーベント・ポスト』、『テークリッヘ・フォルクスツァイトゥンク』、『コル・フォン・デア・ゲットー』、『アメリカーナー』、『モルゲンブラット』、『テークリッヒャー・ヘラルド』、『ヴァールハイト』らがそれである。

諸都市への拡大と発行部数の推移

イディッシュ新聞はニューヨークを揺籃として次第にユダヤ人の多いほかの都市に発展していった。シカゴでは1887年に『テークリッヒャー・ユーディッシャー・クーリエー』、1890年には『テークリッヒャー・イーディッシュ・コール』、クリーヴランドでは1908年に『イディッシュ・ウェルト』および1920年に『ジューイッシュ・ガーディアン』――それはイディッシュ語ならびに英語の両語を使用した日刊紙である――が発刊された。フィラデルフィアでは1914年に『イディッシュ・ウェルト』が発行された。

発行部数を見るに、1895年に存在した2つのイディッシュ新聞『ターゲブラット』および『ジューイッシュ・ヘラルド』は、前者が約1万3400、後者が約2600で、合計わずかに1万6000であった。次の5か年間に『ファールヴェルツ』、『アーベント・ポスト』、『モルゲン・ジュルナール』の3新聞が加わり、発行部数は一躍して総計6万2000に跳ね上がった。1910年には『フォールヴェルツ』『モルゲン・ジュルナール』『ヴァールハイト』『ターゲブラッド』の発行部数総計は33万6000となり、1915年には52万5690となった。

しかしその後まもなく、合衆国政府の移民制限、東部ヨーロッパにおけるポグロムの減退、およびアメリカにおける社会主義運動の不振などのためにこれらの新聞の発行部数はかなり減少した。イディッシュ新聞は、イーディッシュ文学や劇と同様に、絶えずヨーロッパからの新しいユダヤ移民の流入がなければ発展しない。それは単なる媒体であって、アメリカに長く住んでいたユダヤ人は次第にアメリカ化して、英語その他の諸新聞を理解するようになるからである。

ナチス・ドイツユダヤ人排斥によるユダヤ人のアメリ流入によって、イディッシュ・ジャーナリズムは再び新しい土壌を獲得しはじめた。

ユダヤと大通信社

次にもっと一般の新聞について述べよう。1937年にはアメリカの日刊新聞はその数1200あまりに達しているが、そのうちでもハースト系とハワード系とが断然大きな勢力を持っている。

現在世界の大通信社といえばアヴァス、ロイター、APおよびUPの4社であるが、後の2社合衆国に存在する。アヴァス通信社は1835年フランスにおいてルイ・アヴァスが創設したものである。彼にはベルンハルト・ウォルフおよびヨーゼファート・ベールという二人のユダヤ人協力者がいたが、その後ウォルフはベルリンで、またベールはイギリスで各々独立の通信社を創立した。ベールが作った通信社は後にロイターと改称された。

APおよびUPの両者にはユダヤ資本が暗獣の勢力を張っている。合衆国にはこのほかにINSとユニバーサル・サーヴァスというハースト系の大通信社がある。

広告のボイコット

ハースト系新聞社は全アメリカ新聞発行部数の3分の1を占め、その他はAPとUP系が大部分を分有している。ハーストはユダヤ人ではないが、彼の系統の諸新聞はユダヤ新聞、ユダヤ記者、ユダヤ購買者、ユダヤ人広告依頼者などと深い連繋を持っている。特に新聞に対する広告依頼者の影響力は無視する事の出来ないものである。

広告主としてのユダヤ人の力も大きい。1931年、イギリスで『ナショナル・グラフィック』誌がユダヤ財閥反対運動の記事を掲載し、またイギリス放送会社が多数イギリス人を使用していることを攻撃したために同誌の広告者数は激減し、その翌月には早くも発行を停止するに至ったことがある。アメリカでは広告依頼者としてのユダヤ人商人特に百貨店経営者の新聞に対する潜勢力は極めて大きいものがある。

会て『ニューヨーク・ヘラルド』紙の社長ジェームス・ベネットが、ニューヨーク一流の百貨店経営者たる一ユダヤ人から市長立候補について応援を依頼された時、その手紙を『ヘラルド』紙上で暴露したために同紙の広告が激減して年々250万ドルの赤字を出して危険に陥ったことがある。ベネットの死後『ヘラルド』はユダヤ資本の支配下に入ったのである。

また会てハーストのソ連邦排撃を阻止しようとしたユダヤ人が同系の有力新聞『ニューヨーク・アメリカン』に対して広告以来や購読をボイコットしたので廃刊になった。今日ではハースト系新聞もユダヤ勢力によって牽制されるところ大なるものがあるといわれる。ユダヤ人レオン・カルヴァーロは長い間ハーストの巨大新聞雑誌類の出版に関する重要な地位についていた。

ユダヤ系新聞と呼ばれる一般紙

現在合衆国におけるユダヤ系新聞と称せられるものには、『ニューヨーク・タイムズ』、『ニューヨーク・ポスト』、『ニューヨーク・ヘラルド』、『デイリー・ヘラルド』、『ニュース・クロニクル』、『デイリーテレグラフ』、『サンデー・レフェリー』、『フィラデルフィア・レコード』、『エヴリマン』、『ジューイッシュ・テレグラフィック・エージェンシー』その他がある。

アドルフ・オックスとポール・ブロック

イギリスの『ロンドン・タイムス』と並び称され、アメリカ第一の大新聞である『ニューヨーク・タイムス』はユダヤ人アドルフ・オックスの発刊にかかるものである。彼はラビのアイザーク・ワイズの養子であるが、生まれつきの新聞人ともいうべき人で、20歳の時にその郷里チャッタヌーガで『チャッタヌーガ新聞』を発行している。それは今日でも南部での重要な新聞の一つとなっている。オックスがニューヨークにでて『タイムス』を手に入れたときはその読者はわずか9000人で、日々1000ドル宛の欠損が生じ壊滅に瀕していた。しかし彼は15年の間にこの『タイムス』をアメリカ最大の新聞に発展させたのである。

オックスと肩を並べるものにニューヨーク生まれのユダヤ人ポール・ブロックがある。彼は12の新聞を所有し、アメリカ最大の新聞所有者の1人である。彼の所有新聞の中には『ブルックリー・イーグル』や『トレードー・ブレイド』が含まれている。彼の新聞はハースト、ハワード、ガネットの諸系統と連繋を持っている。

諸都市の新聞とユダヤ

小都市のジャーナリズムで有名なのはアイオワ州ダヴェンポート生まれのユダヤアドラーである。彼は西部中央で8つの新聞を支配している。東部ではデヴィッド・スターンが『フィラデルフィア・レコード』およびニュージャージーの数新聞を所有している。

デヴィッド・ローレンスはワシントンにおける『ユナイテッド・ステーツ・デイリー』の発行者である。同紙はアメリカで唯一の政府機関誌である。ローレンスはアメリカにおける指導的な政治記者、政治解説者で、ウイルソン大統領と親しく、ウィルソンの伝記著者ボスウェルというのは彼のことと言われている。ユダヤ系のジョセフ・プリッツァーは、後に『ニューヨーク・テレグラム』に合併させられた東部の創始者である。『ニューヨーク・ワールド・ペーパーズ』の創始者である。『ニューヨーク・イヴニング・メール』および『ハーバート・ベイヤード・スウォープの発行者で、『ニューヨーク・ワールド』の前編集長であったダニエル・ニコホルもユダヤ人であった。マイケル・ハリー・ドゥ・ヤングは『ニューヨーク・ワールド』および『サンフランシスコ・クロニクル』の編集者であった。

合衆国における社会主義日刊英語新聞である『ミルウォーキー・リーダー』の創始者であり、その死にいたるまで編集長であったヴィクター・バーガーもユダヤ人であった。ヴィクター・ローズウォーターは長い間『オマハ・ビー』の発行者であったし、A・コブラーは『ニューヨーク・デイリー・ミラー』の発行者、シメオン・ストルンスキーは一時『ニューヨーク・イヴニング・ポスト』の編集長であった。ウォルター・リップマンは思想家で会て『ニューヨーク・ワールド』の主筆であったが、現在では『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』に関係している。

因みに『ニューヨーク・ワールド』は現在では廃刊になっている。チャールズ・ミッチェルソンはアメリカにおける指導的政治記者の1人で『ナショナル・デモクラティック・コミッティー』の出版監督である。アイザック・マーコッソンもまた有力な政治記者である。以上の他各種の有力新聞には腕利きのユダヤ人記者が沢山いる。

ユダヤ人向けの英語による各種新聞・雑誌

最後に英語のユダヤ新聞雑誌であるが、そのアメリカにおける最古のものはアイザック・M・ワイズの創刊したユダヤ教改革派の公的刊行物『アメリカン・イスラエライト』で、これは現在も継続している。ウィークリーでは1879年創刊の『アメリカン・ヘブリュー』、1890年の『レフォーム・アンドォケート』、1902年の『ジューイッシュ・トリビューン』などがあり、いずれも若いアメリカ化したユダヤ人を主要な読者層としている。そのほか隔週刊行物に『ニュー・パレスチナ』、『ナショナル・シオニスト・オーガン』、青年シオニスト向きの『ヤング・ジューディアン』および『アメリカン・ジューイッシュ・クォータリー』がある。

月刊誌ではメノラー協会の発行する『メノラー・ジャーナル』、『レフレックス』、『ジューイッシュ・フォーラム』、『ジューイッシュ・ファーマー』――これは英語・イディッシュ語の両版がある――および『ブナイ・ブリス・マガジン』がある。この最後のものは英語のユダヤ定期刊行物のうちで最も多くの読者を有するものであるが、その大部分はブナイ・ブリスの会員である。なおブナイ・ブリスは『ブナイ・ブリスメッセンジャー』というウィークリーを発行している。

世界中に拠点を持つ小さな通信社

1930年には合衆国には82の英語ユダヤ定期刊行物があった。特殊なものに『ジューイッシュ・デイリー・ブレティン』がある。これをはじめて掲げた『ジューイッシュ・テレグラフィック・エージェンシー』の別名で、ニューヨークに本拠をもつ同名の通信社の発行にかかるアメリカ最小の日刊新聞であるが、ロンドン、パリ、ベルリン、エルサレムなどに事務所を持ち、世界的通信員組織を有し、諸種の新聞雑誌はもちろん、ロイターやAPなどの大通信社にも資料を提供している。1924年に創刊され、現在6000以上の発行部数がある。

ジャーナリズム業界でのユダヤ勢力の影響力

アメリカのユダヤ人は以上の如き膨大な通信機関を媒体として、アメリカの世論を形成の上に極めて重大なる役割をつとめており、その影響力はますます増大しつつある。アメリカ・ジャーナリズムにおけるユダヤ人の地位は映画界におけるほど圧倒的ではないが、何といっても世界の大通信社におけるその勢力はアメリカの内外問題に恐るべき影響力を持っているのである。

ラジオ業界におけるユダヤ勢力

なお通信界におけるユダヤ人の勢力について無視することのできないものはラジオ放送である。アメリカで有名なNBC放送会社の社長にして全米放送会社の社長たるロシア系ユダヤ人デヴィッド・サルノフであり、コロンビア放送会社の社長もユダヤ人ウィリアム・ペイリーである。またフリード・アイゼンマン・ラジオ会社の社長デヴィッド・フリードもユダヤ人である。