第一インターナショナル⑦衰退と崩壊

安部磯雄小池四郎共訳の『インターナショナル歴史現状発展』より、第一部・第二章、「第一インターナショナル」からの転載です。一部現代風にしています。共訳となっていますが、元々の著者は不明。【コメント】以下は個人的な感想などをまとめることにします。

安部磯雄・・・日本の社会主義者、日本フェビアン協会発足者、日本ユニテリアン協会会長、戦後の日本社会党顧問

 

 

普仏戦争の勃発

マルクスの勝利はしかしながら、長らくは続かなかった。インターナショナルは1869年――70年の洋々たる前途をもつであろうと期待された団体から、一躍して1871年――72年の気息奄々たる団体に化け変わった。この急激な衰退は、1870年7月普仏戦争の勃発に端を発している。

パリ・コミューン

そしてまた戦争に次いで、1871年3月には、パリ・コミューンがやってきた。このコミューンはインターナショナルのフランス支部の会員が、初めから終わりまで重要な役割を演じていたとしても、それはインターナショナルの仕事ではなかった。だが、インターナショナルは、コミューンの目的と方法とを二つながら是認した。総評議会の要求によって、マルクスは一つの「宣言」を書いたがそれが「フランスの内乱」という題名のもとに知られているものである、その中でマルクスは、コミューンを、労働者が「社会的な発案権の能力のある」ことを実証した最初の革命であると推称している。この「宣言」はインターナショナルの公式文書として発表されたが、そのためにイギリスの労働組合運動者を離反させてしまったその時までなお、総評議会の委員であったイギリス側の指導者連は、唯一人の例外を除いてすべてが、総評議会を辞職した。大陸では、コミューンの暴圧が、フランスの労働団体を破壊し、他国の団体にまで影響を及ぼして、それを崩壊に導いた。そして各国の政府はこのコミューンを口実に使って、労働者の総合を抑圧し、国際的労働団結を禁圧した。

1871年にフランスでは、インターナショナルに加盟することを犯罪であるとする法律を制定した。同年ハンガリーの宰相ボイストは「インターナショナルの全欧にわたる危険なる波及」を阻止せんがために、300万グルデンの経費予算をとった。1871年9月には、ビスマルクとボイストとステイバーとが秘密に会合して、インターナショナルの対策を討究した。1872年には、スペイン政府は、ヨーロッパ各国にむかってインターナショナル抑圧の件を訴えた。

マルクスバクーニン

外部のこうした事件のために弱められている一方に、インターナショナルは、また内部的紛争に落ち込んでいった。それは他でもなくマルクスバクーニンとの衝突の形をとったものであるが、この両人は気質において全く相合わざるものがあった。マルクスは、学究的であり、博学であり、組織的であった。論理の過程を通じての革命主義者であった。彼は一面非常な社会情熱家であったが、しかしながら、彼は革命をもって統制しえる秩序的な過程であると考えていた。

それに反してバクーニンは、足につかないような陰謀家であった。そして衝動的であり、秩序のある考え方や書き方のできない対話が雄弁で華やかな、移り気な、いつも革命的な冒険をしたがって、方法と協力者を選択するに無分別な人物であった。そして「悪い情熱を放出」することはいいことであり、破壊は建設よりも一層必要であり、すなわち彼の言葉によれば、破壊の精神は創造の精神であると確信していた。要するに彼はマルクスが名づけたように「得体のしれない、破壊専門の何でも屋」であった。二人がこうした性格である限り、1つの団体を甚だしくよく指導し得る訳はありえない。

しかしながらマルクスバクーニンとの間の相違は、もつと深い根底をもつ闘争を具現している。インターナショナルは、それ自身の中に、到底融和すべからざる要素を含んでいた。そこには、それに先立つ1世紀半の間に育まれた社会主義思想の中から発育に対する見方は、政治的に組織された労働階級が政治権力を獲得し、国家の権力を経済生活社会化の方策を実現するに利用すべきでにありとする。

バクーニンマルクス批判とバクーニンの論理

バクーニンは、この見方を民衆に奴隷化を強いる所の「専制共産主義」または「社会主義のドイツ・ユダヤ型」だとして非難した。バクーニンにとっては、自由と平等は、急激に財産を廃止するのみでなく同時に国家をも××するような××を通じてのみはじめて得られるものであり、社会を共同生活の屈伸性ある組織に変えるような××を通じてのみ得られるものでありとする、こうした見方の相違は、インターナショナルの会員にとって、現実の問題として彼らの心を揺り動かし、情熱を興奮させたものであった。

この観念とは別に、そこにはまた内部抗争のもう一つの要素があった。それは何でるかといえば、中央統制部と地方当事者との間の紛争であった。地方支部特に特別的支部は、総評議会の態度に対して、我慢しきれなくなあってきた。そしてまた主として経済問題に関心をもつ労働組合と政治第一主義に熱狂する混合型支部との間の軋轢があった。そして戦後には各国の労働運動の経済的ならびに政治的背景の上にもまた相違があった。この時にはすでに各国の労働運動は、労働者の注意を、国際的の問題から国民的な問題に引く方に向かって傾いてきていた。

バクーニン派とマルクス派による対立

これらの根本的な紛争はまた、個人的な問題に関する争いともつれあった。バクーニンとその一統は、マルクスエンゲルスとを、専制的であるとし、インターナショナルを議会政治に追い込むようなことをして、インターナショナルの本質を強いて捻じ曲げたものとして加盟各国の労働運動の時局問題を誤って解釈をしたものとして彼らを糾弾した。そしてバクーニンとその一統は、総評議会の廃止を要求し、インターナショナルの目的を書き直して、それを反政治的な革命的な団体として、それに集産主義とフェデラリストの主張を入れ込んだものに、変えなければならないと要求した。

そこで今度はマルクスが、バクーニンとその一統の人格を攻撃した。そして彼らが陰謀を企てインターナショナルの内部に彼ら自身の秘密結社を作り、不正な方法によって、機関を乗っ取ろうとしているものとして彼らを糾弾した。進んでマルクスバクーニンとその主たる同志を、インターナショナルから除名することを要求した。かくして両派間の抗争は、乱暴な悪口雑言の浴びせ合いの中に続けられていった。

ハーグ大会とバクーニン派の追放

1872年9月ハーグで開催されたインターナショナルの大会では、その抗争がクライマックスに上り詰めた。それにはマルクスは自らすすんで出席した。(それがマルクスが出席した唯一の大会である)しかしもうその時には、マルクスがインターナショナルの牛耳を失っていたことは明白であった。ドイツはマルクスが圧倒的である唯一の国であったが、それが、既にインターナショナルから離れていた。その他の国では、彼の一統はあってもそれは小団体であって、大部分は労働運動の他にあった。総評議会においてさえ、マルクスの味方は、もうこの時にはわずかであった。(マルクスは、英国労働運動指導者がディズレーリ(イギリス保守党の重鎮)に身に売り、グラッドストン(イギリス自由党の重鎮)にも身を売ったと、いったために、彼らを怒らせてしまったし、そのほかのものも、今度のエンゲルスの冷たい打算的態度が厄して、彼らから離れていった。)

インターナショナルが、今なお労働運動のの一要素であるような国、すなわりイタリア、ベルギー、フランス、スイス、スペインのような所は、バクーニンとその同志の統制下にあった。そうした実情にあったにもかかわらず、その集会では、マルクスは自力で出席者の内65人の多数を獲得した。そしてバクーニンとその同志の何人かが除名された。そこでは政治行動を是認する決議が通過された。そしてインターナショナルにバクーニンとブランキストの手が届かないようにするために、本部をニューヨークに移そうという決議は31票対14票、11票の危険で承認された。

バクーニンの一党は、1872年9月に、アナキスト・セント・イミアエル・インターナショナルに分離派大会を開催して、彼ら自身の国際的団結を継続する意向を声明した。

ニューヨーク移転とインターナショナルの解散

総評議会をニューヨークに移すとともに第一インターナショナルは、事実と存在を停止したといっていい、新評議会には、フリードリヒ・ゾルゲが書記長となったが、ヨーロッパとの接触交渉を保持することができず、ほとんど全時間をあげて、内部的闘争とつまらない喧嘩に夢中になっていた。同様な状態が、インターナショナル内のほかの「マルキスト支部」にも起こってきた。それについてエンゲルスが、1873年5月に、彼らの一統は「眠っている」のだと報告しなければならないほどの状態となった。バークニニスト支部は、スイスやベルギーやイタリアやスペインに、もう一度まさに消えようとする前に閃光を見せて、ついに小さな分派的集団に還元してしまった。

マルキストとバクーニニストとは至る所で猛烈に戦った。マルキスト支部は、1876年にフィラデルフィアの総評議会の会合において、インターナショナルを正式に解散させた。バクーニニストは、1878年(※1877年か)ヴェルヴィエに彼らの最後の集会を催した。だが、マルキストとバクーニニストのある支部は、80年代の初め頃まで、依然として存続していた。

第一インターナショナルは何故崩壊したのか

インターナショナルは、マルクスバクーニンとの闘争の結果崩壊した。と普通一般にいわれている。だが事実はこうである。この両者の闘争は単にインターナショナルの衰退の一様相に過ぎないものであって、その最初の一撃は、社会主義的傾向に恐れをなしたイギリス労働組合運動の離反にある普仏戦争によって喚起された国家的感情と、パリ・コミューンという呪文によって呼び出された革命の幽霊とが、インターナショナルの存在を、ドイツにおいてはそれを不可能にし、フランスにおいてはそれを破壊したのであった。

パリ・コミューンがあえなく鎮圧されたことは、革命主義者の勇気を阻喪し、社会主義思想の疾風的な勝利を信じていたその信念を打ち破った(バクーニンは1876年に死んでいる。健康を損ね、「民衆の革命的本能」に幻滅を感じつつ彼は死んでいった。)マルクスは1883年まで生きていたが、最後の10年間は、彼は肉体的にも精神的にも損傷をうけていて「徐々に死につつ」あったといってもいい状態にあった。しかも一方に1873年――78年の長期にわたる産業不振は、一切の西欧諸国の労働組合組織を弱めていった。

一般に第一インターナショナルの生命は、19世紀の50年から7、80年にかけての主要な傾向と一致していた。その勃興は、1859年から1870年にかけては、コブデンが1836年以来衝動していたところの自由貿易の理想に向かう運動と一致していた。しかるに一方においては、第一インターナショナルの衰退は、1870年と1880年の間の国家主義の進歩に並行していたドイツとイタリアの統一、クリミア戦争後におけるロシアの国家の改造、南北戦争に引き続くアメリカの国民的団結、バルカンにおける新国民国家の建設、日本の近代化、これらのものはどれも国家主義の現われであるが、それらが労働運動の形式と方法に直接の影響を与えている。

【コメント】

1871年、第五回ハーグ大会の前年にパリ・コミューン政府が成立し、その二か月後にはヴェルサイユ政府軍によって鎮圧・虐殺され、第一インターナショナルにおけるフランスの役割は終わりました。

一方でイギリスの労働組合主義者もマルクス主義、そしてもう一つの勢力バクーニン主義から距離を置き始めました。

残るのは、マルクス派とバクーニン派でしたが、イギリスとフランスの離脱により、活動の場がほとんどなくなってしまいました。このため、マルクスアメリカに活路を見出しましたが、第一インターナショナルにはアメリカで再び一から組織を作り上げるだけの体力はありませんでした。

この後、穏健な社会主義の傾向が強かった第二インターナショナルとレーニンによる第三インターナショナルへと発展していきましたが、ロシア革命によって巨大な帝国を手に入れたマルクス主義者は、その後違った方向へと進んでいきました。

フリードリヒ・ゾル

ちなみに、 第一インターナショナルアメリカに移した時のアメリカの書記長となったフリードリヒ・ゾルゲですが、彼は日本で工作活動を行っていたソ連工作員リヒャルト・ゾルゲの祖父に当たります。

ゾルゲ事件は日本ではやや肯定的に捉えた作品が多く登場していますが、ゾルゲ事件第一インターナショナルから脈々と続いている陰謀の一コマでした。

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