シベリア出兵とは何だったのか――匝瑳胤次『深まりゆく日米の危機』より

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今回は昭和7年の海軍軍人、匝瑳胤次(そうさ・たねひろ)氏の『深まりゆく日米の危機』より「シベリア出兵」に関する文章を転載したいと思います。一部現代語調に変換しています。アメリカは当時1913年から1921年までウッドロウ・ウィルソン政権の時代であり、現在のアメリカを支配する層が権力を掌握した時代でもありました。

 

 

アメリカの3A政策

合衆国がかつてアメリカ・アラスカ・アジアを連絡するいわゆる3Aシステムの大鉄道計画を提議し、近くはハリマンの世界一周交通路管理の理想が出現してから、アメリカ人の対ロシアなかんずく対シベリア活動は相当目覚ましいものであった。

アメリカ国内においてそうであったように、彼らアメリカ人の鉄道政策は、鉄道そのものの利益ばかりでなく、その延長区域の富源を吸収することであることはもちろんである。この意味において彼らはシナに目をつけるのは無論であるが、またシベリアの富源に多くの関心を払うのも自然の数でなければならない。

しかし彼らは決して焦らない。計画と準備と機会の三拍子をまってレオニダスの歩を進めるのである。ハリマンの活動はアメリカ財界の好況と日露両国戦後の余弊に乗じたもので、シベリア出兵の裏面にもロシア鉄道管理の魂胆が多分に含まれていたのである。いいや、むしろ目的の全部がそれであったかもしれない。

ロシア革命アメリカの鉄道政策

このシベリア出兵に関しては日米間に多くの交渉をもたらし、また相当に感情の疎隔を来したのであるから、われわれは日米の関係においてその事実を無視するわけにはいかない。1917年(大正6年)連合国側のロシアに革命が起こったが、何分に資金と物資の欠陥で戦争の継続も難しくなってきたので、ロシアは大戦のために、ただでさえ不完全なるシベリア鉄道を、根本より殲滅しようとするまでに酷使したのである。

本国における物資の欠乏と軍需品の不足とは、たとえシベリア鉄道が破滅に瀕するとも、極度の運転を続けねば、ロシア大帝国の破滅を来すべきときであった。その参戦の当初より大帝国の瓦解を見るまで2年有余は、一刻も休止することなく、シベリア鉄道を酷使した結果は、ついに革命政府の手によっては如何ともすることもできない状態にまで荒廃させてしまったのである。

この時期こそアメリカにとっては、多年の宿望を達すべき最高の機会であるから、同国政府は、さっそく前国務長官エリフ・ルートを特使として、ケレンスキー政府を訪問して、革命政府と親交を結ぶと同時にシベリア鉄道修理問題を交渉させた。これが1918年の春のことである。

ルートは十二分の成功を収めて帰国し、ただちに多量の鉄道材料をシベリアに送り、別の鉄道技師スティーブンス率いられた300名の鉄道技術団員を派遣したが、不幸にも彼らがわが長崎に到着したころにはせっかく鉄道修理を約したケレンスキー政府は倒れ、ロシアの天下は過激派の横行闊歩するところとなり、アメリカの一大特権はここに一頓挫の止むなきにいたった。

ロシア内戦とアメリカの政策転換

ティーブンスの一行は長崎京城などにあってしばらく形成を観望していたが、シベリアは過激派と反過激派とが相対峙し、擾乱また擾乱、目的物たる鉄道も到るところ破壊されて普通となった。彼らは時の非なるをみて一時帰国しようとしたのであるが、このとき、わが国ではシベリア出兵の白熱的議論が行われて、今にも日本軍のシベリア上陸が実現されようとする形勢を呈した。スティーブンスはついに擾乱のシベリアに突進して、従業員を東清線の各要所に散布したのである。これ実にアメリカの技術上の同線の占領を意味し、連合出兵後における共同管理の主人公たる運命を定めたものである。

アメリカがかくのごとく革命政府に同情を振りまき、援助を約し、特派大使を派遣してしきりにその歓心を結ばんとしたのは、決してウィルソンばりの人道とか民主主義の勝利とかいうことのためではなかったのである。実は従来満蒙問題に対する日露両国は、その共通利害関係から、帝政時代においてつねにアメリカに対して同一なる反対態度をとっていた。またその最近においては、ほとんど攻守同盟に近い日露協商まで出来上がった。アメリカが水を注せば注すほど日露は親しくなっていった。さすがのアメリカも手を下しようがなかった時に、ロシアの革命が突発して反政府方の天下となったのである。

どうしてアメリカはこの機会を逃すだろうか、まず同情を売り成功を祝してその感情を和らげ、一億ドルの貸与を約して実物の援助を示し、かくして米露親善の端緒を開いて、日本を孤立に陥れ、露支両国において自分に都合よい政策を行おうとするの方便とした。だからこそ、ロシアがレーニンの手に落ちシベリアが乱れると必然の順序としてアメリカのシベリア干渉が始まってきたのである。

シベリア出兵前の日本とアメリカの対立

しかもシベリア出兵はわが国のいわゆる自主的出兵説に端緒を発したのであるが、これが実行に先立ちわが政府はこれを英米仏に提議した。イギリス・フランスはこれに賛成したが、アメリカは日本から来た理由をもってこの提議を撥ねつけた。当時アメリカはケレンスキー政府時代において、シベリア鉄道の経営を約し、既にその従業員まで派遣していた時である。かつ一面においてはロシアの民主政体となることに同情を表し、あまつさえ過激派との了解のもとにシベリア鉄道の経営に着手しようとした時である。ゆえにこの際日本のシベリア出兵はアメリカの企画に大なる齟齬をきたすものであるから、日本の提議に対して、『出兵はロシア内政の干渉である』と称してこれに賛同しなかった。かくて日本の自主的出兵の計画は全く頓挫することが余儀なくするに至ったのである。

しかるにその後チェコ・スロヴァキア軍救援の申請を見るに至って、さきに日本の出兵を撥ねつけたアメリカは今度は反対に自分から我が国に共同出兵の提議を持ち出してきた。この裏面の消息を観察すると、アメリカのいいようもなきわがまま振りが発揮されているのを見るのである。元来アメリカはロシア出兵をもって内政干渉となし、かつ新たに起こったロシア民主政治の発達を阻害するものであると称して、その実、アメリカは独占的にロシアに対して、経済的援助を与え、かくてシベリアにおける利源を独占しようと企画したのだが、シベリアの現状が過激派の跋扈と争乱の巷と化したので、彼ら計画の実行に危険と困難が伴い、到底継続の不可能なるを見極めたところで連合出兵の提議をなし、その秩序の回復を待ってさらに予定の計画を続行しようとしたのである。されば過激派がシベリアに起こるにせよ、起らぬにせよ、チェコ軍がこれと戦うにせよ、戦わざるにせよ、アメリカはシベリア鉄道を共有とするか、もしくはアメリカの手によってこれを管理せざればやまないというのが本音であった。

日本はかつて出兵を提案したかどにより、アメリカに反対する理由なく、共同出兵の提議に応じて、チェコ軍救援の名によって、ウラジオストックに出兵することとなった。これが1918年(大正7年)八月上旬であった。

陸軍とアメリカ軍間の交渉

シベリア出兵について、日米両国は共同動作をとることになったが、両国の間に互いに深い猜疑心を有していたものと見え、その交渉往復ともに頗る用心深い態度をもって行われたのである。大正7年7月8日、アメリカがチェコ軍救援の目的をもって我が国に提議してきたないようは次のとおりである。

軍隊の覇権はロシア人の好感情を維持するため日米同数とし、その旨共同宣言をなすこと。
現代アメリカ側より応急派遣すべきものは北シナおよびフィリピンにある二個連隊約7000人にして、募兵および船腹の関係上送兵延引すべきにより、とりあえず日本より派兵すること。

これにたいして日本の回答は、日米両国が出兵の目的において一致する以上は、救援の方針により、兵数を制限することは不可能である。もし出兵後新たな事項が発生した場合、必要に応じて出兵するもやむを得ない。というものであった。アメリカは更に折り返して次の回答をよこしたのである。

多数の兵力を派遣するのは、ロシア人をしてシベリアに対する兵力干渉なる誤解を抱かせるに至るので、こくのごときはアメリカの本旨にあらざるをもって、日本が強いて多数の軍隊を派遣しようとするのであれば、アメリカは本件より脱退し、無関係の状態に立つだろう。アメリカより7000の軍隊、ギリスより3500、イタリアより2000、フランスより300を派遣するとして、日本より1万2000を超えない軍隊を送れば、合計2万5000以下にして、チェコ側の希望によるもこれにて足るだろう。ロシア人をして誤解を生じさせるないだろう。かつアメリカは日本の連合軍指揮権を認める他、日本派遣兵力に関して、この際論及しないことにし、必要な場合に新しい問題として議することとする。

ここにおいてわが政府はこれの回答に合意を表し、8月2日出兵の宣言をしたのである。

かくしてチェコ軍救援と過激派軍掃蕩のため、戦線は次第に拡大してわが陸軍は7万余人を出兵することとなり、イルクーツク以東の治安は主として日本軍によって回復維持されることとなった。すなわち軍事的には日本が最も多くシベリアに犠牲を払っていたのである。

シベリア利権とアメリカの政策

この間に各国は皆シベリアの富源開発に注意を怠らなかったが、特にアメリカは周到なる活動を試み軍事行動よりもむしろ教化的、救援的事業に重きを置き、また地方民心の収攬につとめ、利権問題については主として東部シベリアの産業的価値に着目し、鉄道、鉱山、森林などに関し熱心なる調査を行った。

また連合軍がシベリア上陸以来、軍隊輸送の関係上、ウラジオストックに鉄道会議なるものができ、大谷司令官統卒のもとに連合各代表者を会議員として、鉄道使用に関する協定ならびに対ロシア干渉事務を管掌することにして居ったのである。この会議は当初連合各国の配置されていたウスリー線に限れれていたので、わが国の独占舞台たる黒龍線には、その権限が及んでいなかった。しかるにその後該会議の権限も漸次拡張され、ことにアメリカのごときも共同動作をとる以上、たとえ自国の軍隊がその地方にあらざるにせよ、鉄道は鉄道会議これを掌理すべきであると主張するようになり、ついに黒龍線鉄道会議の支配下に置かれることとなった。

思うにこれがアメリカの真目的であったのはいうまでもない。しかし日本軍を主としたる連合軍には、とかく日本側の主張と重なるものとなって行われる観があったので、アメリカの眼から見ると、これが不愉快でたまらないのである。ゆえに日米の間には鉄道に関して絶えず、暗闘が繰り返されていた。ことにアメリカの技術院の配置してあった東清線では日本軍のバイカル方面輸送に対してアメリカ側の妨害を受けることがしばしばであった。ある時は従業員を使嗾して、日本軍輸送の真っ最中に同盟罷業を起こさせたり、貨物列車の転覆を行ったりしたのである。当時同鉄道はいまだ鉄道会議の管掌外にあったのだが、技術方面の実験はほとんどアメリカ人の掌中に帰していた。かかる事業のもとに、日本軍をして我が物顔に鉄道を使用させることは、アメリカ人にとっていかに不快極まることであったかは想像するに難しくない。

外交交渉によるウラジオストックの政策の転換

『出兵はシベリア鉄道アメリカより引き離すべき不幸を生じた』とアメリカが憤慨したのもこの間の消息を率直に告白したものであった。

アメリカはいかにもしてこのバイカルおよび東清鉄道をウラジオストックの鉄道会議の権限内に引き入れようと努力したが、しかし、それには根本問題たるバイカル・東清線にある日本軍をウラジオストック軍の配下におくべき必要があった。アメリカはこれを出発点として東京における外交的手段を行い、日本軍の協定外軍隊出動に対する抗議となって現れたのである。

当時アメリカ軍の代表者らは日本軍と交渉する場合に『諸君が我が意見をいれずば東京の外務省に打電して解決する』とは二言目には必ず口にするところであった。要するに彼らアメリカ人は腰の強い我が軍人を避けて、脅しの利く手触りよい外務省の手合いを相手にする方が都合が良いと考えだした。しかして、日本軍はついに全部ウラジオストック軍の配下に属することとなり、東清後バイカル線鉄道会議の管理に帰したのである。かくして共同管理の協定案は、ウラジオストック軍の手を離れて、日米両国政府の協議事項となり鉄道共同管理問題は、アメリカの思う存分の条件のもとに解決を告げ、1919年(大正8年)3月17日これが取極め書が東京外務省より発表された。

この取極め書によって鉄道技術部長となったスティーブンスは、各国より出した部員の自由任免の権を有し、ロシア人の指示を行い、必要に応じていかなるところへでも人員を派遣し得るというほとんど鉄道独裁官のごとき権限を有することとなったのである。かくしてスティーブンスはシベリア鉄道全幹線を4管轄に分けて、これが総監督官にアメリカ軍人を任命して、自己のは配下に置き、日本に対してはウスリー線の一部および黒龍鉄道および長春よりハルピンに至る東清鉄道の一支線(ただしハルピン停車場を含まず)をあてがい、その二区をスティーブンス直轄のもとにおいて日本委員を監督官に任命した。これによって見れば、わが委員会の受け持ち管区は、どこからいうもアメリカ委員管区の線を過ぎていかねば我が管区に達することができないのである。我が接壤の関係からいえば、我が管区は当然東清鉄道であるべき筈で、はた治安維持の要点としても日本にとって重大な関係があるのであろうから東清鉄道の開通運転だけは日本に一任されたいと提言した。しかるに種々の交渉の結果、アメリカはウラジオストックよりチェリャビンスク間における6700余露里のシベリア幹線を完全にその支配下においたのである。ここに至って日本やアメリカは日露戦役当時よりの計画であったハリマンの鉄道政策たる、世界一周交通機関の実現を見るに至った。

ロシア情勢決する

かく計画通りに進行したアメリカの企図は、更にオムスクにできたコルチャーク政府援助に対して日英仏を誘ったのである。ただし、この運動はコルチャークとオムスクの条件について意見の一致をみることができず、グズグズしている間に形勢一変し、連合軍の間にも何かと問題がおこり、そのうち英仏二国も欧露およびシベリアからほとんど撤兵することとなり、アメリカまたウラジオストックその他12の要所に兵を駐めて深く内地へ侵入しないということになった。かかる間にオムスク政府は過激派軍との戦いに敗れて1919年(大正8年イルクーツクへ撤退し、コルチャーク提督は該地に蜂起した社会革命党らに攻められ、ついに捕らえられて殺されることとなったのである。こうなってはアメリカの提議した連合軍のシベリア干渉は何のためであるか分からぬ、見苦しき失敗の結果となったのである。

アメリカの離脱と尼港事件

その後日本は過激派軍の勢力が満州・蒙古へ侵入するのを防ぐためとあって増兵計画をたて、アメリカの賛同を求めたが、アメリカ政府はこれにこたえるに先立って1920年大正9年)1月日本と相談することもなく、自国軍をどしどしシベリアから撤退させて、スティーブンス以下の鉄道隊員をも帰国させてしまった。これはシベリア出兵の発頭人たるアメリカとして決して責任を尽くしたものとは言えないのだが、もはやシベリア鉄道管理の見込みがつかないと見切りをつけては、あとは野となれ山となれ、シベリアあたりに用はないということになった。自分に用事がなくなるか、用事が済めば、他人の参酌などに頓着もなく、わがまま勝手に振舞うのがアメリカ式である。日本は犬鷹に浚われて寒いシベリアにひとり取り残された勘定となったのである。春秋の筆法をもってすれば、尼港虐殺の元凶はまたアメリカであるといわれないことはないであろう。

【コメント】

学生時代に習った、ドイツの3B政策、とイギリスの3C政策。実はもう一つ、アメリカによる3A政策というものもありました。これらの概念は基本的には日本の影響下にあった国で使われる概念です。

シベリア出兵は、いろんなことが言われていますが、そこにはシベリア鉄道を巡る利権の問題がありました。アメリカがシベリアに出兵したのは、恐らくウィリアム・アヴェレル・ハリマンからの働きかけがあったのでしょう。

もう一点考えられるのは、過激派のボルシェヴィキ政権にシベリア鉄道を引き渡すためだったのではないかという推測もできます。アメリカは実は赤軍パルチザンを裏で支援していたのではないかという推測もできます。