第一インターナショナル②セント・マルティンス・ホール

安部磯雄小池四郎共訳の『インターナショナル歴史現状発展』より、第一部・第二章、「第一インターナショナル」からの転載です。一部現代風にしています。共訳となっていますが、元々の著者は不明。【コメント】以下は個人的な感想などをまとめることにします。

安部磯雄・・・日本の社会主義者、日本フェビアン協会発足者、日本ユニテリアン協会会長、戦後の日本社会党顧問

 

 

ロンドン労働評議会と国際博覧会

イギリスと大陸の労働者の接触は、最初は随時的な、不定期なものであった。1861年12月17日には、ロンドン労働評議会は、ネープル全労働者組合から、イタリアの統一を確立し、労働組合を組織するための援助を求められた。そこでロンドン労働評議会は、イギリスの労働組合の内容を記述したものを作製したが、それが大陸に広く流布された。

1862年の夏には、フランスから労働者が300人以上、そしてドイツから12人ほどのものが、ロンドンの国際博覧会にやってきて、ロンドンの組合員がそれを饗応したことがあった。同時に、彼らはロンドンに住んでいる自国からの亡命者連中とを会って連絡をとることができた。かくしてこれらの会合の間に国際的な労働者の提携が議論されたと思われる。

ポーランドの反乱と英仏の労働者組合

その後、やはりその年のうちではあるが、ロンドンとパリで組織された労働者の委員会の間に交渉がまとまって、ちょうどその時アメリカの南北戦争に厄されて、産業が一時挫折された結果、失業していた英仏の紡績業の労働者を援助することになった。1863年のはじめ頃に、イギリスの労働者を、ジョン・ブライトと提携して、英米の間に危機を胎んでいた戦争を防止するための、猛烈な運動を開始したが、それは世界の経済的・政治的相互提携の観念を成長する上でに拍車の役目を務めた。

フランスの労働者とロンドンの労働組合の指導者の間の交渉はポーランドの反乱の結果として、1863年には一歩前進することができた。パリとロンドンには、ポーランドの反乱主謀者を救援する委員会が労働者の手で組織され、1863年7月22日には、これらの委員会がロンドンに国際集会を司会したが、それには、英国労働者を代表して、オジャーとクリーマー、パリの労働者を代表してヘンリ・トラン、ペロコン・リムーザンが出席して、ポーランド独立の回復を決議した。

1863年ポーランド一月蜂起を描いた作品(中央の黒い服の女性がポーランドを象徴)
その翌日ロンドン労働評議会は非公式の会合を催して、フランスの労働者と親しく国際労働者団体の問題について、意見を交換したが、そこでは、イギリスの労働指導者は、その問題についてフランスの労働者に対してアピールを作製することが決定された。

ロンドン労働評議会のフランス労働者への訴え

それから4カ月ばかりたって「イギリス労働者よりフランス労働者に訴える」というアピールをオジャーが起草して、それをパリに送ったが、その主要な要項は、労働運動の国際的行動の必要性を強調した所にあった。その訴え文はこういっている。

「われわれが労働時間を短縮し、労働市価を引き上げて、われわれの社会的な生活条件を改善しようとする時にはいつでも、われわれの傭主は、フランス人やドイツ人、ベルギー人、もしくはその他の国の人々を連れてきて、安い賃金でわれわれの仕事をさせて、われわれを威嚇する側に、われわれを苦しめようとする気持ちがあって、そうするのではないことを、われわれはよく知っている。

だがそれは確かに、万国の工場に働く階級の間に、規則的な組織的な連絡を欠けている所からくるものである。われわれの目的は、安い労働者の賃金を、よりよき待遇の労働者の賃金の水準に、なるべく近づくように引き上げる所にある。そしてわれわれの傭主が、われわれの仲間を互いに対立競争させて、彼らの貪欲な取引に添うような最低条件に、われわ引曳り下そうとする意図を食い止めるにある。」

これに対してフランスの労働者が返答文を作製するには、約1カ年の日子を要したが、いよいよそれができた時に、1863年7月の会合に出席して、その3人の労働者がそれを提示するために、ロンドンにわたってきた。

第一インターナショナルの参加者

このフランスの代表者を歓待するために、1864年9月28日のこと、セント・マルティンのホールに会合が準備された。この会合に国際的な色彩をつけるために、ロンドンの労働組合員は当時、ロンドンに亡命してきていた各国の亡命者を招待した。その会合に出席したものは、マッツィーニ派のイタリア人、フランスの社会主義者とブランキスト、ポーランドの革命家、旧共産主義者同盟の会員の一団――その中にはカール・マルクスがいたが、彼は1849年以来ロンドンに住んで、大英博物館で研究に耽っていたのである。

このほかにまた、幾人かの生き残りのオーウェン宗徒とチャーティストもいた。その会合は満員の盛況であったが、司会者はE・S・ビーズリーであった。彼は当時イギリスの組織労働者の顧問の役を務めていた。実証哲学者の1人であった。

仮委員会の創設

この会合ではオジャーが最初にイギリスの「声明」を朗読した。それからトランがそれに対する答辞を読んだが、その内容の要項はこうであった。「資本は今や、金融産業両方面の強力なる合同に集中しつつある。」そして世界の労働者は「提携協力によって救済」を求めなければならぬというのであった。その後で投票が行われ、フランスの提案は可決されたが、それがロンドンの中央委員会と、欧州のすべての首都にある各支部との間の国際的提携を作り上げた。

仮委員会が設けられて、それに21人のイギリス人、10人のドイツ人、9人のフランス人、6人のイタリア人、2人のポーランド人、2人のスイス人が選出され、新しい団結の綱領と組織との準備を委任された。

【コメント】

フランスは秘密結社的と表現されることが多く、後にパリ・コミューンという形として現れました。パリ・コミューン第一インターナショナルの関係と同じように、フリーメイソンとの関係も指摘されています。大きく分けると二つの潮流があり、1つがルイ・ブランキによるブランキ主義(しばしば極左冒険主義とも表現されます)でもう1つがピエール・プルードンによるプルードン主義になります。

ブランキ主義

ブランキはフランス革命期の共産主義者バブーフを信奉しており、ブランキ主義はマルクス主義と近い部分があります。個人的な推察ですが、大きな違いはブランキ主義がフリーメイソンによる革命としての要素が強く、マルクス主義ユダヤ選民思想による革命という要素が強いと言った所なのではないかと思っています。

プルードン主義

プルードンからは相互主義が見出せますが、彼の無政府主義がブランキ主義とどの程度違うのかによって、個人的な評価が変わってきます。一見すると非常に大きな違いがありそうですが、パリ・コミューンの参加者には、ブランキ主義者とプルードン主義者の両者が入り混じっているように見え、何故この両者が近い関係にあるのかが、私には少し見えてこない部分があります。ブランキ主義とプルードン主義の両者の共通点が、彼らの嘘の中にあるとすれば、別の話ですが。

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