第一インターナショナル①フランスの伝統とイギリスの現実主義

見出し画像

安部磯雄小池四郎共訳の『インターナショナル歴史現状発展』(1931年)より、第一部・第二章、「第一インターナショナル」からの転載です。一部現代風にしています。共訳となっていますが、元々の著者は不明。【コメント】以下は個人的な感想などをまとめることにします。

安部磯雄・・・日本の社会主義者、日本フェビアン協会発足者、日本ユニテリアン協会会長、戦後の日本社会党顧問

 

 

経済的膨張の新時代

1848年から50年にかけて一度打ち寄せた革命の波が引き去っていったときに「飢えたる」そして「嵐」の40年代のその追憶は、その波と共に浚ってもっていかれてしまった。

カリフォルニアとオーストラリアに金が発見され、ミシシッピーの向こう側に新しい地方が開発され、鉄貿易と農業技術に一大変化がもたらせ、鉄道と海洋の交通運転が急速に拡大されたについて、その間に出来上がってきた「経済的膨張の新時代」が、間もなく個人の財産をつくり、大衆の生活状態を改善する未曽有の機会をもたらすようになった。

西欧においては、熟練労働者は、この膨張によって、アメリカとオーストリアに大々的な移民が行われたために、それが人口の圧迫を緩和したことによって食料品の物価の下落によって、そして又前記の産業制度の荒っぽい角の幾分を滑にすりとるに役立った所の新労働によって、西欧の熟練労働者は利益する所が少なくなった。

この経済的繁栄は、一面において一般的な知的の反動情勢を伴ってきた。いわゆる「囂々たる」40年代に対比して、50年代の特色は、「政治的沈退」と実際的な、現実的な、精神とにあった。「社会問題」は人間の心からその関心を失い、関心の中心は、国家的膨張と国際的対抗の問題に移っていった。

ヨーロッパの労働者組合

フランスやドイツでは、動乱期の間に組織された労働者の組合は、そのまま消滅してしまったか、もしくは政府の抑圧に曝されねばならなかった。イギリスでは、チャーティストが死んでしまって、立ちどころに忘れられてしまった知識階級は、公的生活から没落した。

しかしながら労働者にとっては、この時期は、当時の繁栄の大きな分け前を獲得するための「強靭な非ロマンティックな」団体を組織すべき時期であった。フランスやドイツでは、労働者は政治的反動や法律上の無力に妨げられ、その努力を、自身の教育と相互扶助とに向けていた。しかしイギリスとフランスでは、それは近代的な最初の大規模な職業組合結成の時期であった。ことにイギリスについては、この新しき発展は重要な意義をもっていた。

というのは、この50年代の間には、一都市一地方に、単一職業の沢山の労働クラブや組合が成長したばかりでなく、最初の全国的な職業組合が生まれたという点にある。すなわち、機関手合同組合、大工組合、鉄工組合などがそれであるが、それらは、高い組合費を徴収したり失業・旅行・疾病その他の手当を給与したりすることによって、あるいはまた職業の問題に十分に配慮することによって、そして勢力を集中することによって、確固たる労働組合主義の基礎を置いたものである。そしてそれはその後長い間、ひとりイギリスだけでなく、他の諸国にも、1つの手本として役立ったものであった。

労働組合の国際主義

国際労働団結の観念が、この時になって現れてきたのは、イギリスの労働組合指導者の間にであった。なぜそうなったかといえば、1850年以来、ドイツ・フランス・ベルギーからロンドンの職業の中に労働者が流れ込んできたのが原因であった。だがそれが勢力をえてきたのは、1857年――8年の恐慌後ではあった。この恐慌の一つの影響は、それより以前に打ち立てておいたつっかえ棒の倒壊であった。

そしてまた、ロンドンの建築業の労働者が、賃金引上げ、時間延長に反対して起こった罷業がそれであった。建築請負業者はそれに対抗するにロックアウトと大陸から罷業(ストライキ)破りを輸入する企てとを以てした。

ロンドン労働評議会

そこでロンドンの労働諸組合は、1860年の夏、ロンドン労働評議会を組織して、彼らの共通利益の増進を謀った。この経験からロンドン労働評議会の指導者連は――ロバート・アップルガース、W・R・クリーマー、ジョージ・ハウウェル、そしてジョージ・オジャー――特にオジャーは、大陸の労働者と連携をとることが、イギリス労働者にとって、望ましい事でもあり、かつまた必要であるという教訓を得たのであった。この結論は、更に1861年のロンドンの建築業の第2回の罷業(ストライキ)の結果として、彼らの心のなかに堅く信念つけられた。

このように、イギリスの労働指導者が、その注意を大陸に向けつつあるある間に、そこに起こった事件がある労働者のサークルに国際問題についての関心を呼び起こしはじめていた。

1850年代・60年代の世界情勢

ナポレオン3世の政策の自由主義的な変化と共に――それは一部分1857年――8月の危機の結果であったが――そして1859年イタリア解放のための対オーストリア戦争とともに、この60年代を個人主義国家主義自由主義の商標とするようになったところの、そうした転換が起こった。

1859年から1961年にかけて、最初のイタリア議会がトリノ(チューリン)に招集された。ロシアは農奴制を廃棄し、大改良政策の時代に入り込んだ。アメリカは南北戦争をはじめ、ドイツは、自由主義的な改良政策にたいする要望が、再び目覚めてきたことを認識するようになった。こうした事件に刺激されて、大陸の労働者は、イギリスの労働者と接触を保つようになり、その間彼らは1848年の伝統に従って、国際的団結の観念を蘇らせた。

【コメント】

今回は前に紹介したものより詳細な第一インターナショナルに関する資料を紹介します。著作が社会主義者あるいは共産主義者視点で書かれていることに注意する必要があります。実際の著者は解りませんが、翻訳者は比較的有名な阿部磯雄が共著者となっているものです。

ゴールドラッシュ

1848年に現在のカリフォルニア州で、ジェームズ・マーシャルという男が極めて純度の高い金を発見しました。この発見により30万人もの人々がカリフォルニアに集まったと言われています。最初の採掘者の多くが1949年にカリフォルニアに向かったことから、これらの人たちはフォーティナイナーズと呼ばれています。この名前はサンフランシスコにあるアメリカンフットボールのプロチームの名前にも使われています。

1851年にはオーストラリアのニューサウスウェールズ州とヴィクトリア州でも金が発見されました。このため現在のニューサウスウェールズ州シドニーやヴィクトリア州のメルボルンなどにも大量の移民が押し寄せました。

シドニーメルボルン

黄色がニューサウスウェールズ州(目印がシドニー)青がヴィクトリア州(目印がメルボルン
第一インターナショナルが創設されたのはカリフォルニアやオーストラリアでゴールドラッシュが起こった10数年後の事になります。

ロンドン労働評議会

ロンドン労働評議会のメンバーはTrade Unionistと呼ばれる労働組合主義者で、ジョージ・オジャー、ロバート・アップルガースが靴職人、ウィリアム・ランダル・クリーマーが大工など職人で構成されていることが解ります。

イタリアの労働者協会

イタリアの労働者協会はいわゆるマッツィーニ派と呼ばれ、マッツィーニの秘書を務めるルイジ・ウォルフがその代表者です。マッツィーニはイタリア統一の活動家であり、フリーメイソンであったことが今日知られています。イタリア統一に貢献したジュゼッペ・ガリバルディフリーメイソンであることが知られています。

関連記事

第一インターナショナルとは何か?【田所輝明】 - 幻想の近現代

第一インターナショナル①フランスの伝統とイギリスの現実主義 - 幻想の近現代

第一インターナショナル②セント・マルティンス・ホール - 幻想の近現代

第一インターナショナル③結成と組織 - 幻想の近現代

第一インターナショナル④インターナショナル第一回労働者大会 - 幻想の近現代

第一インターナショナル⑤成長期 - 幻想の近現代

第一インターナショナル⑥マルクスの勝利 - 幻想の近現代

第一インターナショナル⑦衰退と崩壊 - 幻想の近現代

第一インターナショナル⑧風説と事実 - 幻想の近現代