通説フランス革命史①

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今回は、日本での一般的なフランス革命の歴史を辿っていきたいと思います。教科書などを参考にやや階級闘争史観を取り除きました。この一般的なフランス革命観が実は意図的に本当の歴史が隠されたものであるということを認識する必要があります。

一般的な歴史認識の背後に隠れた事実を確認しながら以後のフランス革命論を進めていくつもりでいます。

 

 

革命前の時代背景

フランス革命が勃発する以前のフランスでは、第一身分とされる聖職者と第二身分とされる貴族が様々な特権を持っていました。それ以外の市民や農民などは第三身分と呼ばれます。

聖職者や貴族はフランスの人口2千数百万人の内55万人に前後で、人口の2パーセントでした。彼らは免税の特権を有し、農民から年貢を徴収する権利を有していました。

第一身分の大司教や司教、第二身分の宮廷貴族などに対して、下級の聖職者や地方貴族は経済的には決して楽なものではありませんでした。当時のフランスではリベラル派の貴族やブルジョア層の市民は啓蒙思想Enligntenmentの影響を受けていました。

三身分は非常に幅広く、銀行家・大商人・地主のようなブルジョアジーから、弁護士・作家・医師・教授などのエリート層から、職人や労働者などの下層階級までさまざまでした。

ブルボン朝財政問題

ルイ14世来宮廷の浪費や戦費、年金などの支出が増えて行き、このためフランスの財政は赤字が累積していきました。アメリカ独立戦争の援助で更に20億ルーブルを費やし、1780年の時点で財政赤字は45億ルーブルにまで達していました。

このためルイ16世重農主義経済学者のテュルゴーとスイスの銀行家ネッケルなどを財務長官に起用しました。ここで第一身分と第三身分から課税をするという改革案が出されましたが、聖職者や貴族の代表からなる名士会に拒否されてしまいます。

これが法服貴族の代表たる高等法院やオルレアン公を代表する自由貴族の反発を招き、特権身分の一部が1614年以来開かれなかった全国三部会の招集を要求しました。これに第三身分のものもこれに加わりました。これには国王の権限の制限しようという目論見がありました。

三部会の招集は承認され、三部会の議員の選出が、各身分ごとに行われ、選挙人集会で議員が選出されました。この間、激しい宣伝を行いました。神父のシエイエスの『第三身分とは何か』というパンフレットが大反響を呼びました。シエイエスはここで第三身分がすべてであり、唯一の国民を代表するものであると唱えました。

三部会の開催

1789年5月5日、ヴェルサイユで三部会が開かれました。議員の数はおよそ、第一身分300、第二身分300、第三身分が600(うち半分が法律家)、併せて1200名ほどとなりました。この中には改革を目指す聖職者や貴族、そしてシエイエスミラボーのように、聖職者や貴族という立場から離脱して第三身分という立場から選出されたものもいました。

三身分は、議員の身分別の資格審査を拒否し、身分別の投票ではなく、個別の投票を要求し、身分別の審議を拒否することで特権身分と対立しました。

1789年6月17日、第三身分の議員を中心に、自分たちだけが国民を代表しているとし、みずからの会を国民議会と宣言しました。彼らはいかなる新税も国民議会の承認なしでは不法であると考えました。

1789年6月20日、第三身分議員は、ルイ16世によって議会が閉鎖されたため、国民議会の議長であったバイイはこれに抗議して宮殿の球戯場に集まり、憲法を制定するまでは解散しないことを一人を除き満場一致で宣誓します。これを球戯場の誓いといいます。

ルイ16世は聖職者・貴族・第三身分の合流を勧告し、1789年6月27日に国民議会に屈服しこれを承認しました。7月9日、国民議会は正式に憲法制定国民議会と改称し、憲法制定に着手しました。

バスティーユ襲撃

宮廷貴族の強硬派は、ヴェルサイユにブロイ公爵を総司令官として軍隊を集結させ、7月11日に財務長官のネッケルを罷免しました。この国王側の対応に、パレ=ロワイヤルの扇動者が市民に武装を呼びかけました。

7月12日にデモは略奪や放火などの騒乱に代わり、治安維持のために都市民兵が配備されました。7月14日に群衆が廃兵院から武器を奪い、武器や弾薬があると考えられたバスティーユ監獄を襲撃しました。

ここで7人の囚人が解放されました。バスティーユ司令官のローネー侯爵やパリ市長のフレッセルが襲撃の犠牲者となりましたが、革命全体でみると大きな事件といえるものではなかったかもしれませんが、バスティーユ襲撃は革命の象徴的な意味をもつようになっていきました。

バスティーユ襲撃後の国民議会と人権宣言

この襲撃事件を受けて1789年7月16日にネッケルが呼び戻され、7月17日にルイ16世はパリを訪問し、国民衛兵の創設と新市長バイイの就任などの改革案を認めました。これは地方にも波及していき、各都市で新しい自治体や民兵が組織されました。

農村では貴族による陰謀論が噂されるようになり、領主の館が襲撃され、商人や高利貸しなども襲撃されました。8月4日、ノアイユ子爵ルイ・マルクらが封建的諸特権の廃止を宣言し、租税上の特権、領主の裁判権、教会の十分の一税などが廃止されました。

8月26日、国民議会はラファイエットらが起草した17条の「人権宣言」を採択しました。人権宣言では人間の自由と平等の権利、自由・財産の安全や圧政に抵抗する権利など、これらは近代社会の基本原則となっていきました。

ヴェルサイユの行進

10月4日から5日にかけて、パリの中央市場や場末街の女たち、国民衛兵や武装した男たちが、パリからヴェルサイユへと行進し、宮殿に乱入、ルイ16世が宮廷貴族から切り離され、パリに連れ去られました。これにより国民議会もパリにうつりました。

国民議会は89年から91年の間、教会財産の国有化、公債アッシニアの発行、聖職者民事基本法やギルドの廃止や度量衡の統一などが可決しました。1793年にラボアジエらの働きによってメートル法が交付されています。議会は立憲君主派が多数を占めていましたが、左翼を大きな力を有していました。

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最後に

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