ジル・ド・レ――百年戦争のもう一つの物語

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前回、百年戦争を取り上げました。今回はこの百年戦争に登場するとある貴族に焦点を当てたいと思います。百年戦争は三つの区分に分けることができます。彼が登場するのは三つの内最後の時代となる、イギリスのランカスター朝とフランスのヴァロワ朝とが争った時代になります。

 

 

三勢力の鼎立

当時のフランスには三つの勢力が鼎立した状態でした。一つがプランタジネット朝を追放し、再びフランスに上陸してきたイングランドの勢力となるランカスター朝です。もう一つが精神病を患ってしまったシャルル6世ではフランスを統治することができないと考えたブルゴーニュ公となります。そしてランカスター朝ブルゴーニュ公の同盟によってフランスの南部に追い込まれたヴァロワ朝が第三の勢力になります。

1415年にフランスに侵入してきたイングランドとフランスとの間でアジャンクールの戦いで起こりました。ヴァロワ朝はこの戦いに大敗してしまい、狂気王シャルル6世をサポートしてきたオルレアン公が捕虜となってしまいました。

ブルゴーニュ公はシャルル6世の王太子を追放しましたが、これに逆上した王太子によって惨殺されてしまいました。これにより、後をついだブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランドとの同盟を結ぶことを決定しました。

1420年にイングランドとフランスの間でトロワ条約が締結され、狂気王シャルル6世が亡くなった時、ランカスターのヘンリー5世の子供ヘンリー6世がイングランドとフランスの王になるということが約束されました。

ヘンリー5世とシャルル6世が立て続けに亡くなると、生まれたばかりのヘンリー6世がトロワ条約によりイングランドとフランスの王となりました。フランス南部に追いやられたシャルル6世の王太子シャルル7世はこれを認めませんでした。

1428年にはイングランド軍はシャルル7世が支配する南フランスを制圧すべく、その要衝オルレアンを包囲します。これがこれから取り上げる人物が登場する舞台のバックグラウンドとなります。

ジル・ド・レ

ジル・ド・レは1405年にフランスのシャントセの城に生まれたと言われています。1415年に父親と母親が亡くなると、ジル・ド・レは母方の祖父に預けられることになりました。その後1420年に、祖父の計略によりカトリーヌ・ド・トアールと結婚しました。

レ家は、ブルターニュ地方の貴族であり、1341年から1365年にかけて、モンフォール家とブロワ家との間で繰り広げられたブルターニュ継承戦争でモンフォール家側について戦っていた一族でした。イングランドの支援を受けたモンフォール家でしたが、後にシャルル5世と和解し、ヴァロワ朝側につきました。

更に1425年にはモンフォール家のジャン5世がヴァロワ朝のシャルル7世と同盟を結んだことにより、その後ジル・ド・レの祖父ジャン・ド・クランもアンジュー公の副司令官に任命され、ジルもシャルル7世の側近ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユに重用されるようになりました。

オルレアン包囲戦

オルレアンが包囲された1428年の翌年、シャルル7世のもとに神の声を聴いたという一人の女が訪れてきました。この時にシャルル7世の前に現れたのが有名なジャンヌ・ダルクです。シャルル7世はジャンヌ・ダルクの話を受けて、彼女に軍装とオルレアンへの派兵に同行することを許可します。この時にジャンヌとともにオルレアンへの援軍に参加したひとりがジル・ド・レでした。

その後、ジャンヌ・ダルクによって導かれたフランス軍は快進撃を繰り広げ、パテーの戦いで勝利をおさめると、ついにランスを奪還し、7月17日にシャルル7世の戴冠式を成功させます。ジル・ド・レもランス大聖堂の戴冠式に出席するなど、その時の活躍が評価されます。

9月のパリ包囲戦を最後にジルは所領に戻りましたが、その後ジャンヌは捕縛され、1431年に異端審問を受け火刑によって殺害されました。

ジル・ド・レと黒魔術

この頃から、ジル・ド・レは錬金術や黒魔術などにのめり込んでいったと言われています。彼を重用していたジョルジュ・ド・ラ・トレモイユが失脚して追放されるなど、彼を取り巻く環境は次第に悪化の一途を辿っていきました。また、オルレアン包囲戦を題材とした劇の上演などで起死回生を狙いましたが、失敗に終わりました。

ジルはフランソワ・プレラティというフィレンツェの司祭の悪魔召喚術にのめり込んでいました。彼らはバロンと呼ばれる悪魔の召喚によって富を得ようとしたのです。

彼は1432年から1433年にかけて子供に暴力を加えて、レイプした後に殺害しました。これらの殺害には彼のボディーガード達を始め、いとこなども関わっていました。被害者の数は100~200名とも言われており、多くの無垢な子供たちが、オカルトの悪魔崇拝の犠牲となってしまいました。

やがて彼の周辺で少年の虐殺の嫌疑と行方不明事件が報告されるようになりました。1440年5月に遂にジル・ド・レは逮捕され、10月に絞首刑に処されました。

ネスタ・ウェブスターのカバラ批判

イギリスの作家ネスタ・ウェブスターは15世紀のイタリアはカバラの影響を受けた中心地であったと指摘しています。ジル・ド・レは子供たちの血を使う奇怪なレシピを用いていたとされます。

当時、スペイン、ポルトガルプロヴァンス、イタリアでユダヤ人が権力を掌握しており、カバラフィレンツェの知識人の間に浸透していました。

ウェブスターは著作の中でカバラ神秘主義エリファス・レヴィが「古いヘブライの魔法の書の存在が知られていれば、地球全体の嫌悪によりユダヤ人を処刑していただろう」と述べている点を引用しています。

サタニズムはジル・ド・レ個人に見られるように、歴史に時折登場する散発的なものであると解釈されることが多くありますが、ウェブスターは決してこれらはそのときそのときに局所的に行われているものではなく、ヨーロッパで広がりを見せた悪魔学がその背後にあるとしています。

ヨーロッパの悪魔学は本質的にユダヤの科学であり、悪霊への信念は早い時代から存在し、常に原始的な人種の中に存在し続け、文明国の無知な階級の中でも存在し続けた。これらの暗い迷信が西洋に輸入されたのは主にユダヤ人を通じてであった。ユダヤの伝統の不可欠な部分を形成していた。

邪推かもしれませんが、ウェブスターがキリスト教への強い信頼から過剰にユダヤ教を批判している側面があるかもしれませんが、いずれにせよ、このようなヨーロッパの悪魔学、サタニズムについてはその存在を、日本の学校では教わることはありません。

日本の危機の一部ないしその全体がヨーロッパの伝統として存在している悪魔学やサタニズムにあるとしたならば、私たちはこのような事実を知らないでは済まされないと考えざるをえません。

最後に

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