通説フランス革命史③

今回は、日本での一般的なフランス革命の歴史を辿っていきたいと思います。教科書などを参考にやや階級闘争史観を取り除きました。この一般的なフランス革命観が実は意図的に本当の歴史が隠されたものであるということを認識する必要があります。

一般的な歴史認識の背後に隠れた事実を確認しながら以後のフランス革命論を進めていくつもりでいます。

 

 

国民公会ルイ16世の処刑

8月10日事件の結果、1792年8月末から9月初めに普通選挙により議員が選ばれ、国民公会が成立しました。国民公会(定員700超)は、王政廃止と共和政(第一共和政)の樹立を宣言しました。

立憲君主派は姿を消し、共和派のみとなった国民公会では、議場の右にジロンド派(約165)と議場の左にモンターニュ派(約150)が対立していました。ジャコバンクラブはモンターニュ派が支配していました。

穏健な中韓グループは平原派(約400)と呼ばれ、両派の間を揺れ動き情勢に左右しました。国民公会で国王が裁判にかけられました。国王は公的自由に対する陰謀と、国家の安全を侵犯したことにより、ほぼ満場一致(賛成693対反対28)で有罪となりました。

モンターニュ派の提案した国王の死刑が可決し、ジロンド派が提案した死刑執行延期は僅差で否決され、1793年1月に革命広場、のちのコンコルド広場でルイ16世はギロチンにより処刑されました。

第一回対仏大同盟とヴァンデの反乱

革命軍の攻勢と国王の処刑は、イギリスははじめとするヨーロッパ諸国の革命への敵意と警戒心を強めました。

イギリスの小ピット首相の呼びかけにより、1793年、第一回対仏大同盟が結成されました。イギリス・オーストリアプロイセン・スペイン・オランダなどが参加しました。

国内ではヴァンデ県で王党派が指導する農民の反乱がおこり、インフレと買占めと食糧難から民衆への不満が高まりました。

ジロンド派の追放

国民公会では司法に革命裁判所、治安局としての監視委員会、行政機関に公安委員会などが設置されました。このうち特に行政活動の監視を行う公安委員会がしだいにその権限を強めていきました。

ジロンド派はこのような措置に反対し、モンターニュ派は93年6月パリのサンキュロットの武装兵力に国民公会を包囲させ、ジロンド派議員を追放して、独裁権を握りました。ジロンド派の議員や大臣の多くが逮捕され、処刑されました。

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最後に

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