通説フランス革命史⑤

今回は、日本での一般的なフランス革命の歴史を辿っていきたいと思います。教科書などを参考にやや階級闘争史観を取り除きました。この一般的なフランス革命観が実は意図的に本当の歴史が隠されたものであるということを認識する必要があります。

一般的な歴史認識の背後に隠れた事実を確認しながら以後のフランス革命論を進めていくつもりでいます。

 

 

ナポレオンの登場

総裁政府のもとで、インフレによる生活の圧迫によるジャコバン主義が復活し、王党派や反革命派も盛り返しを試みていました。革命で混乱を極めるパリでは事態を収束し安定に向かわせる指導者の出現を望んでいました。

このような中でナポレオン・ボナパルトが登場しました。コルシカ島のイタリア系の貧しい貴族の出であったナポレオンは士官学校から砲兵将校となり、革命軍に加わり、そこで軍事的な才能が認められました。

テルミドールのクーデターではロベスピエール派と目されたために、一時その地位を失いましたが、総裁政府発足直前のパリの王党派の反乱(ヴァンデミエールの反乱)でこれを鎮圧し、総裁政府からの信頼を勝ち取りました。

1796年のオーストリア攻略作戦では、27歳のナポレオンがイタリア方面軍司令部に抜擢され、兵力に勝るサルディーニャオーストリア同盟軍を破り、97年にはオーストリアに迫ったため、カンポ=フォルミオの和約を結んで、第一回対仏大同盟を崩壊させました。

ナポレオンのエジプト遠征

更にイギリスのインド支配にに挑む拠点を得るために1798年にはエジプトの遠征を行いました。エジプトを占領したナポレオンでしたが、フランス艦隊はイギリスのネルソン艦隊にアブキールで敗れて全滅し、フランス遠征軍はエジプトに釘付けとされました。

1799年にイギリスはオーストリア・ロシアなどと第二回対仏大同盟を結成しました。国内の政治状況とイギリスの動きを聞いたナポレオンは、軍をそのままエジプトに残し、僅かの兵でフランスに戻りました。

ブリュメール18日のクーデター

フランスではシエイエスタレーランフーシェらが協力してクーデター計画を練っていました。1799年11月、革命歴ブリュメール18日、ナポレオンは軍を指揮してクーデターを実行し、総裁政府を打倒して臨時統領政府(執政政府)を樹立しました。

新しい憲法(共和暦8年憲法)が作られ、国民投票にかけられ、圧倒的多数の賛成を獲得しました。クーデターは承認され、4院制の議会、3人の統領からなる政府が組織され、ナポレオンは任期10年の第一統領となり独裁的権力を握りました。

ナポレオンの政策と第一帝政

1800年にナポレオンはオーストリアとの戦争を再開しました。アルプスを越えてイタリアに入り、マレンゴの戦いでオーストリア軍を破りました。1801年にリュネヴィルでオーストリアとの講和が結ばれました。ピット政権が倒れたイギリスとは1802年アミアンの和約を結びました。さらに1801年、ローマ教皇と宗教協約を結んでフランスにカトリック復活を認める和解をしました。

1800年にフランス銀行が設立され、税制改革が行われ、教育制度も整えられました。更にナポレオン法典と呼ばれるフランス民法典の編纂を行いました。私有財産の絶対性、家族の尊重、法の下の平等などを原則とし、伝統と革命思想の調和を図りました。

こうして1802年に、終身統領となったナポレオンは国民投票により、皇帝の地位に上りつめました。こうして、ナポレオン1世は、戦争の勝利と栄光によってその地位を獲得し、第三回対仏同盟が結成されると、ヨーロッパ大陸制覇に動き出しました。

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最後に

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