ハリウッドの誕生④MGM

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今回のテーマも映画とプロパガンダです。ここではMGMについて紹介します。この記事は2020年06月30日(火)に書いたものの転載です。

 

 

MGM

メトロ・ゴールドウィン・メイヤーは、アメリカの巨大メディア企業です。本社はカリフォルニア州ビバリーヒルズにあります。略称はMGMで、MGMの映画は吠えているライオンがオープニングで登場しますが、これをレオ・ザ・ライオンといい、このロゴには長い歴史があります。

MGMが最盛期だったのは30年代から40年代にあたりまでで、MGMは、早期に衰退期を脱したユニバーサル・ピクチャーズワーナー・ブラザースとは異なり、長らく浮上することができませんでした。MGMの最盛期は経営部門のトップがルイス・メイヤーの時代とほぼ完全に重なるのは着目に値します。

日本との関連でいえば、2005年から2015年にかけてソニー・ピクチャーズ・エンターテインメントの資本が入っています。2010年にMGMは倒産法の適用を申請しましたが、『007 スカイフォール』、『ホビット 思いがけない冒険』の世界的大ヒットにより、MGMは破産状態から脱却することができました。

MGMの最盛期、特にルイス・メイヤーがトップであった時代と、その前身のルイス・メイヤー・ピクチャーズと、ルイス・メイヤーピクチャーズと合併したゴールドウィン・ピクチャーズの時代に着目すべきでしょう。第二次世界大戦以前に最盛期を迎えていたこの時代を見ていきたいと思います。

ゴールドウィン・ピクチャーズ

まず、サミュエル・ゴールドウィンと彼の会社ゴールドウィン・ピクチャーズについて見ていきましょう。

サミュエル・ゴールドウィン(1879 - 1974)は、出生時の名前はサミュエル・ゴールドフィッシュといいます。

ゴールドフィッシュはポーランド生まれのユダヤ人で、父親の死後、ワルシャワからハンブルグに移り住み手袋職人の訓練を受けていました。その後、イギリスのバーミンガムにいき、1899年にニューヨークに行きました。そこで衣料品のビジネスを行い、そこでマーケティングスキルを身に着けました。

その後、1913年に義理の兄であるジェシー・ラスキーやセシル・デミル、オスカー・アプフェルらとともにジェシー・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニーを設立します。1914年に会社はパラマウント・ピクチャーズの前身であるフェイマス・プレイヤーズ・フィルム・カンパニーと年間36本の映画供給の契約を結びました。

1916年に、ゴールドフィッシュはブロードウェイのプロデューサーであるセルフィン兄弟と共にゴールドウィン・ピクチャーズを作りました。この時、ゴールドフィッシュは正式に名前をゴールドウィンに改めます。先ほども紹介しましたが、この時のマスコットキャラクター、レオ・ザ・ライオンの商標が、のちのメトロ・ゴールドウィン・メイヤーに引き継がれ、今日まで記憶される存在になっています。

会社は、のちにマーカス・ロウのメトロ・ピクチャーズと合併してメトロ・ゴールドウィン・ピクチャーズに、次にルイス・メイヤー・ピクチャーズと合併し、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーになりました。

しかしサミュエル・ゴールドウィンは併合前に会社を放擲され、1923年にサミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズを設立しました。会社は1959年まで続きました。

のちにサミュエル・ゴールドウィンJrも映画会社を設立しており、ゴールドウィンの影響力はこちら側にも生きています。

ルイス・メイヤー

次にルイス・メイヤーについて紹介します。

ルイス・メイヤー(1884-1957)はロシア帝国ミンスク生まれのユダヤ人です。父のヤコブ1886年アメリカのニューヨークに渡り、その後カナダのセントジョンでスクラップ業者で働いていました。

メイヤーは1904年に親元を離れボストンでスクラップ業者として働きました。同じ年にメイヤーはマサチューセッツ州のバーバーヒルで小劇場を買収、1907年に改修して再オープンしました。1914年ころには映画の配給権の買収ビジネスを開始し、その時に得た資金を元手に1917年に映画製作会社のルイス・メイヤー・ピクチャーズを設立しました。

1924年にマーカス・ロウのメトロ・ピクチャーズ、サミュエル・ゴールドウィンゴールドウィン・ピクチャーズと合同して、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーを設立し、副社長として実質的な主導権を掌握しました。

MGMはロイ・チェイニー、グレタ・ガルボクラーク・ゲーブルスペンサー・トレイシージュディ・ガーランドなどのスター俳優を輩出しました。

またMGMには天才的なプロデューサーのアーヴィング・タルバーグが在籍していましたが、1936年に37歳の若さで亡くなりました。

スター俳優と優れた映画製作のおかげで、大恐慌時のアメリカ経済にあって、MGMは好調を維持し、この頃にはハリウッドの最高峰の地位に立っていました。

第二次世界大戦終結するとMGMのロマンス映画の人気かぎりが見え始め、テレビが一般家庭に浸透したこともあり、映画業界に逆風が吹き始めました。また、1948年のパラマウント訴訟の判決によって、大手スタジオは映画館の独占的支配権を一挙に失うことになりました。

1951年にはついに27年間保持し続けた最高権力を更迭されました。

ルイス・メイヤー時代の代表作には、『オズの魔法使い』、『風と共に去りぬ』、『トムとジェリー』シリーズがあります。

プロパガンダ

ベン・ハー』はルー・ウォーレス原作によるMGMの1959年の映画です。

現在の『タイタニック』(1997)、『ロード・オブ・ザ・リング王の帰還』(2003)に並びアカデミー賞11部門を受賞を記録している、アメリカ映画史上最高峰の作品の一つとして作品です。

作品はキリスト、ナザレのイエスが生きていた時代のもので、ユダヤ人貴族の青年であるジュダ・ベン・ハーが主人公の作品です。

あらすじについては、他のサイトに譲りますが、内容はローマの圧政時代のイスラエルにおいて、ユダヤ人であるベン・ハーナザレのイエスの信念が互いに肯定的に扱われているという印象を受けます。

映画評論は、私の関心事ではありませんので、私の論点だけを言いますと、ハリウッドのユダヤ人たち、そしてアメリカのエスタブリッシュメントであるユダヤ人たちにとって、アメリカにおける大多数のクリスチャンに対して、ユダヤ人の存在を肯定的に感じさせるという意味で、非常に重要な役割を果たしてきた作品なのだろうという感じがします。

ベン・ハー』は決して時期的に考えてもニューディールプロパガンダとは言えないと思いますが、本質としてその目的は全く同じだと思います。

前回でも3S政策について少し触れましたが、欧米、特にアメリカを中心にアメリカのエスタブリッシュメント、おそらくウッドロー・ウィルソン大統領の時代あたりから積極的にこの3S政策を推進してきたと考えられます。それは今もアメリカを中心に、全世界的に継続して行われています。

3S政策の3つのSとはすなわち、Screen(スクリーン)、Sports(スポーツ)、Sex(セックス)のことで、様々なプロパガンダ、あるいはパブリック・リレーションズ(PR)を構築することによって、一般大衆に政治に関心を持たないようにすることを指していいます。

現在のメディアのほとんどが、一般大衆が政治に関心を持たないように、あらゆる方法を用いています。アメリカでもそうですし、日本でもそうです。

私たちがエンターテインメントとして受け入れているものの多くは芸能・スポーツが中心ですが、これこそ3S政策の中心的な政策になります。映画・テレビ番組・スポーツなどのエンターテインメントのすべてが計画的に、国民から政治に関心を抱かせないために、そして深い熟慮を行わせないために存在しています。

ベン・ハープロパガンダとして非常にわかりやすいものですが、現在、世界に溢れている情報のほぼすべてがプロパガンダと言っても言い過ぎではありません。ヨーロッパで長い間諸国民に危険視されてきたユダヤ人が、いかに正義のために生きているのかをアメリカ人に印象付けるための作品と断定していいと思います。

1928年にフロイトの甥であるエドワード・バーネイズは『プロパガンダ』という著作を書いています。彼はウォルター・リップマンやギュスターヴ・ル・ボンなどから大衆心理というものを研究し、大衆操作を専門に活動していました。

フランスの社会心理学者ル・ボンは『群衆心理』の中で人々が集団のなかで物事を単純に考え、同じことを何度も繰り返し、暴力的に社会にかかわっていく心理に警笛を鳴らしましたが、アメリカではすでに指導者たちがこの心理を利用して大衆を操作する方法を活用していました。

バーネイズは、プロパガンダを次のように定義します。

「大衆と、大企業や政治思想や社会グループとの関係に影響を及ぼす出来事を作り出すために行われる、首尾一貫した、継続的な活動」

現代のテレビ・映画・ラジオ・週刊誌などの多くがこのプロパガンダを広めるために存在しています。そして今、情報技術の発達によって、人々が戦前から続くプロパガンダの活動に気が付きだしています。現在はそういう時代と考えることができるでしょう。

最後に

最後までお付き合いいただきありがとうございました。ご感想などありましたら、気軽にコメントください。