革命以前のロシアの労働者政治組織

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前回紹介しましたナロードニキの二つの秘密結社「土地と自由」、「人民の意志」とは異なる形で、第一インターナショナルの影響を受けた労働者による組織が形成されていきます。

 

 

南ロシア労働者連合

1875年、ロシア帝国オデッサロシア帝国ではじめて労働者組織「南ロシア労働者連合」がザスラヴスキーによって創設されました。ザスラヴスキーはカール・マルクスによる国際労働者協会の暫定憲章を採用しました。ザスラヴスキーは連合の創設した年に逮捕され、重労働の刑を言い渡されました。1878年に彼は結核でなくなりました。

連合自体は、1876年にはメンバーの15人が裁判にかけられるなど、壊滅しました。

北ロシア労働組合

1878年サンクトペテルブルクで組織されたのが北ロシア労働組合です。組合の主催者はスミルノフ、ゴロドニチというものたちで、その後、活動はステパン・カルトゥリン、ピョートル・モイセーンコ、ヴィクトル・オブノルスキーによって率いされています。

連合は「労働者新聞」を創刊し、200人に上った組合員はストライキを主導、その後、モスクワやヘルシンキ支部を設立することに成功しました。1880年に連合はロシア政府によって取り締まられましたが、回避に成功した組合員は「人民の意志」に合流しました。

労働者解放団

1883年にはスイスのジュネーブで、ロシア初のマルクス主義政治組織である労働者解放団が創設されました。ゲオルギー・プレハーノフを中心に、ヴェーラ・ザスーリチ、レフ・デイチ、ヴァシリー・イグナトフ、パーヴェル・アクセリロード(ユダヤ人)らがメンバーでした。

労働者解放団は元は秘密結社「土地と自由」のメンバーであり、「人民の意志」に参加せずに、スイスに亡命した結社員で構成されています。農民コミュニティにおける土地再配分システムを主張していたため、「黒の再配分」と呼ばれています。

労働者解放団のメンバーの1人、セルゲイ・インガーマンは後にアメリカに移住し、アメリカ社会党のメンバーとなっています。彼は後にレーニンらのグループ、ボルシェヴィキに反対の立場でした。

労働者階級解放のための闘争連合

「労働者階級解放のための闘争連合」は1895年にサンクトペテルブルクレーニンユダヤ系)によって創設されたマルクス主義組織です。前回の記事で紹介したように、これより8年ほど前の1887年に秘密結社「人民の意志」のメンバーだったレーニンの兄が処刑されています。

闘争連合の主要メンバーはグレブ・クルジザノフスキー、ピョートル・ザポロゼトゥス、アナトリー・ヴァーニフ、ユーリー・マルトフ(ユダヤ人)です。

闘争連合は、その後モスクワ、キエフビリニュス、ニジニノヴゴロド、イヴァノヴォ、ニコラエフ、エカテリノスラフなどの組織と関係を確立していきました。

1895年にレーニンをはじめとして57人が逮捕され、96年、97年にも次々にメンバーが逮捕、投獄、追放されています。メンバーのクルプスカヤは流刑地のウファでレーニンに再開し、両者は婚約者であることを主張し、シュシェンスコエ村の教会で結婚しています。

ロシア社会民主労働党

秘密結社「土地と自由」のメンバーがスイスに亡命し、そこで労働者解放団を結成し、労働者階級解放のための闘争連合の主要メンバーがシベリアなどに追放されている間、1898年にミンスクで初めてロシア社会民主労働党が党大会を開きました。

ロシア社会民主労働党は後に多数派を自称するボルシェヴィキと少数派のメンシャヴィキとに分かれていきます。