レヴェイヨン事件――イルミナティのオルレアン派による最初の陰謀

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学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

 

 

熱気球の発明

1783年6月4日、フランスのアルネーという町で製紙業者の家庭で生まれ育ったモンゴルフィエ兄弟(ジョゼフとジャック)が無人の熱気球の公開飛行を行いました。

12番目の子であったジョゼフは発明家気質の夢見がちな性格で、15番目の子であったジャックは実務家気質の性格だったと言われています。熱気球を構想していったのは兄のジョゼフでした。

モンゴルフィエ兄弟による熱気球の評判はパリにも届き、実務家的な弟ジャックはパリの壁紙業者のジャン・レヴェイヨンとともに9月11日にレヴェイヨンの工場があるフォリー・ティトンの敷地内で公開飛行を成功させました。

ジャックに協力して熱気球を飛ばすことに成功したレヴェイヨンが1789年に襲撃された事件をレヴェイヨン事件といいます。

パリの空を人を乗せた熱気球が飛ぶ

同じく9月19日にはヴェルサイユ宮殿においてルイ16世マリー・アントワネットと群衆の前で、羊・アヒル・鶏を乗せた飛行実験を行いました。人間が気球に乗って空を飛べるか確認するためです。実験の結果、羊・アヒル・鶏の生存が確認されたため、ルイ16世は有人による飛行を許可しました。

ジャックとレヴェイヨンはこれまでのものよりも大きな気球を作成し、気球には荘厳な装飾を施しました。10月15日にまずはジャックが、そしてピラートル・ド・ロジェが係留した状態で飛行に成功しました。

10月21日には、ロジェとフランソワ・ダルランド侯爵の2人が、高度910m、パリ上空を9km、25分にわたり飛行することに成功させました。

モンゴルフィエ兄弟の熱気球とは異なる水素ガスを用いた気球も、時期を同じくして開発されていきました。1785年1月7日には水素気球を用いてフランス人のジャン・ピエール・ブランシャールとアメリカ人のジョン・ジェフリーズがドーヴァー海峡を横断することに成功します。

レヴェイヨンとオルレアン派の暴徒

1789年のパリは厳しい冬のためにパンの価格が急騰しました。これを受けてレヴェイヨンは4月23日に、職人は一日15スーでうまく生きていくことができるという発言をしました。レヴェイヨンの職人たちには日当25ス―未満しか支払われていませんでしたが、厳しい冬のために仕事のない職人たちに全員に日当は全額支払われていました。

この頃のパリには、労働者でもない、農民でもない盗賊として表現できないような人間たちが集まっていました。彼らの多くは南フランスやイタリアからやってきたと言われています。

1792年のテュイルリー宮襲撃事件より前にマルセイユ連盟兵が入城の際に口ずさんでいたのが切っ掛けとなり、現在のフランス国歌は『ラ・マルセイエーズ』となったとされていますが、1789年時点でも既にマルセイユなどから多くの身分の解らない人間たちが集まっていたことが分かっています。

このようなフランス南部やイタリアから集まった盗賊同然のものたちがパリの革命指導者たちに雇用されていました。彼らを雇っていたのは、オルレアン派のピエール・ラクロやニコラス・シャンフォールだったのではないかと、ネスタ・ウェブスターは推測しています。

レヴェイヨンはオルレアン派の候補者に反対していた三部会の選挙人でした。4月27日に、彼らはレヴェイヨンの肖像を引きずって大挙していました。彼らは工場の労働者たちに自分たちに従うように強要しました。このような暴徒たちがレヴェイヨンの家にたどり着いた頃、暴徒たちは軍隊によって包囲されていました。

この時、ヴァンセンヌへ向かう途中のオルレアン公がこの暴徒と軍隊が対立する中に姿を見せました。オルレアン公は暴徒たちに落ち着くように伝えて立ち去りました。オルレアン公の勧告は全く効果がありませんでした。

夕方になるとヴァンセンヌから戻ってきたオルレアン公妃マリー・アデライードが馬車で通り過ぎました。このため軍隊のバリケードに隙ができ、暴徒たちはレヴェイヨンの邸宅を荒らしました。このため、軍と暴徒によって戦闘が起こり、軍と暴徒の間で死者がでました。

彼ら暴徒はみな同額の12フランを持っていました。タレーランはレヴェイヨン事件はラクロによる陰謀であるとし、シャンフォールもこの陰謀に関わっていると見なしました。

同時代の歴史家マーモンテールは、オルレアン派の2人はレヴェイヨンの工場を潰すために資産を使い、ミラボーもこの暴動を肯定していたと言います。

レヴェイヨンは壁紙・接着剤・家具・絵画のすべてを焼かれ、2000本のワインが略奪されました。レヴェイヨン自身は幸い騒動から脱出することに成功し、その後イギリスに移住しました。

レヴェイヨン事件後のパリ

その後、フランスでは5月5日に全国三部会が開かれ、6月17日に第三身分部会による国民議会が宣言されました。その後、7月11日にネッケルが罷免されると、12日にパレ・ロワイヤルでカミーユ・デムーランが人々に対して「武器を取れ」と演説します。14日にバスティーユ牢獄が襲撃されたことによってフランス革命が勃発しました。

イルミナティ

以前にも紹介した通り、オルレアン公はフリーメイソン大東社のグランドマスターであり、1776年に設立されたイルミナティのメンバーでもあります。ミラボーを含めオルレアン派の革命家たちの中にはイルミナティのメンバーが存在していることが確認されています。

日本では世界史の中ではフランス革命は、聖職者や貴族によって搾取されたパリ市民によって起こされた素晴らしい革命であったといった感じで教えられていますが、実際の歴史はそれほど単純なものではありません。モデル化された歴史はすべて作られたものです。

政治的な意図、宗教的な意図によって手垢塗れになった歴史を再度点検する作業が、現在必要とされています。フランス革命については以後も、断続的に分析していきたいとおもいます。

今回はオルレアン派による陰謀とも言われているレヴェイヨン事件を紹介しました。

用語

フランスのフリーメイソンのロッジの一つであるル・ヌフ・スールは「9人の姉妹」を意味し、ギリシア神話に登場する女神ムネモシュネの9人の娘(ミューズ)が由来となっています。

ムネモシュネの娘である9人姉妹はそれぞれ、
 カリオペ(叙事詩
 クリオ(歴史)
 エラテルペー(音楽と抒情詩)
 エラト(愛の詩)
 メルポメネ(悲劇)
 ポリュムニアー(讃美歌)
 テルプシコラー(ダンス)
 タリア(コメディ)
 ウラニア(天文学
となります。