【解説】フランスのフリーメイソン史

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今回はフランスのフリーメイソン史について解説したいと思います。事実に反する内容もあるかもしれませんので、エンターテイメントだと思って、疑いの目をもって読んでいただければ幸いです。

 

 

フランスのフリーメイソン

フランスでは1535年にパリとリヨンで二つのスコットランド系のメイソンロッジの記録があります。フランスのフリーメイソンイングランドからの亡命ジャコバイトによって設立されたともいわれています。フランスのグランドロッジは1728年から1738年にかけての期間に設立されたとされています。1773年にフランスのグランドロッジから大東社が分裂します。

フランス革命フリーメイソン

1789年に始まるフランス革命の背後にもフリーメイソンの存在があることが知られています。当時の大東社のグランドマスターであったオルレアン公ルイ・フィリップ2世はスコットランドの物理学者ジョン・ロビソンの著作によるとイルミナティのメンバーだったとあります。革命の中心人物だったミラボーフリーメイソンでありイルミナティだったとされています。

フランス大東社の名門ロッジの一つヌフ・スール(ナインシスターズ)も非常に大きな力をもっていたロッジでした。1778年に、啓蒙思想家のヴォルテールアメリカのベンジャミン・フランクリン、後にパリ市長となるジャン=シルヴァン・バイイが会員として認められています。またアベ・バリュエルはブリッソーやダントンもナインシスターズのメンバーだったと書き残しています。

ダントンや彼の秘書であるカミーユ・デムーランはコルドリエ・クラブのメンバーでもあり、この組織も非常にフリーメイソン的な組織だったことがわかります。コルドリエ・クラブにはそれ以外にもピエール・ラクロ、ジャン=ポール・マラー、スタニスラス=マリー・マイヤール、ジャック・レネ・エベールといった過激派がいましたが、彼らはエルヴェシウスの理念に従って革命を遂行したと考えられます。

フランスのフリーメイソンの拡大

ナポレオンによって準公式な地位が与えられ1802年に1万人であったフリーメイソンは、1889年には2万人、1936年には6万人にまで拡大していました。フランスではほぼすべてのロッジがジョルジュ・クレマンソーが1901年に創設した急進党に所属していたとされています。

また、フリーメイソン神秘主義的な儀式や象徴主義などについて議論することを好む人々にアピールしていましたが、次第に政治家は選挙で有利になるために、公務員は昇進のチャンスを得るために、ホテル経営者は顧客を獲得するために、ビジネスマンは新しい取引や子供の仕事を見つけるために利用する組織へと変化していったとされます。

フランス大東社は反カトリック運動を支援していたともいわれています。1904年にフリーメイソンで急進党のエミール・コンブ内閣の急進派政府に依頼され、カトリック教徒の昇進を阻止するために陸軍士官の個人情報を密かに収集していたとするスキャンダルが起こり、政府が退陣に追い込まれています。

パリ・コミューン

1871年4月21日にヴェルサイユ宮殿パリ・コミューンとの最後の和解交渉はフリーメイソンによってなされたと言われています。パリ・コミューンのメンバーの多くは第一インターナショナルのメンバーであり国際労働者運動の先頭に立っていました。当時のフランスの第一インターナショナルのメンバーの多くはブランキ派やプルードン派に属し、秘密結社的だったと言われています。

1871年3月26日の選挙によりパリ・コミューン政府が成立し、28日にはパリ市庁舎前でパリ・コミューン宣言がなされていました。4月に入ってヴェルサイユ軍とコミューンとの間で戦闘が開始されました。

4月29日に1万人のメイソンがグランドマスターとロッジの旗を先頭にパリ市庁舎まで行進しました。また、彼らメイソンの行進にヴェルサイユ軍は発砲をやめ、ヴェルサイユ軍のメイソン司令官は彼らの迎え入れ、彼らの提案を受け入れたと言われています。

最終的に和平交渉は上手くいかずに、フリーメイソンはコミューン派の戦闘員として戦ったとされています。

パリ・コミューン第一インターナショナル、フランスのフリーメイソンという三者関係は判然としない部分もありますが、強い結びつきがあったことは間違いないでしょう。

イギリスフリーメイソンとフランスフリーメイソンの分裂

1877年にフランスの大東社が、カルヴァン派フレデリック・デスモンの報告を受けて、フリーメイソンの規約の「その原則は、神の存在、魂の不滅、人間の連帯である」という文言から、「その原則は良心の絶対的自由と人間の連帯である」という文言に改正しました。

これをうけてイギリスの連合グランドロッジは信仰を否定し、無視するロッジは真の正会員とは認められないとしてフランス大東社との関係を停止しました。フランス大東社が組織的なレベルでフランス政治に深く関与していたことも連合グランドロッジが大東社との関係を停止した原因の一つとも考えられています。

イギリスの連合グランドロッジは大東社から分離したグランドロッジを承認しています。新しく商人されたグランドロッジは、ロッジの開会と閉会を「宇宙の大建築家」(創造主)の名において行われること、政治的問題に公式に参加しないことなどが取り決められました。

課題

フランス革命パリ・コミューンについてはもう少し深く掘り下げる必要がある。

大きな事件がない所のフランスのフリーメイソン論は少し拡げづらいところがある。

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最後に

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