ソ連時代の中央銀行――ゴスバンクの成立

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ゴスバンクと歴代理事長

1917年から1920年にかけて、ソヴィエトロシアには中央銀行がありませんでした。1921年レーニンは新経済政策(ネップ)により、戦時共産主義により疲弊した民衆を救済することを決定しました。これによりソヴィエトでも中央銀行が設立されました。

ソヴィエト時代の中央銀行(国家銀行)は一般的にゴスバンクと呼ばれています。1921年から1924年にかけて、レーニンによって任命されたユダヤ人のアーロン・シェインマンがゴスバンクの理事長を務めました。後に1926年から1929年にかけて再び理事長となりました。

レーニンは1922年にシェインマンに手紙を送り、1週間前にシェイマンが国家銀行が強力な機構となったと表現したことに対して、官僚的なペーパーゲームだと非難しています。

実際にレーニンはその著書帝国主義論の中で「銀行業の発達における究極の帰結は独占である。」と指摘していますが、まさにソヴィエトでも銀行業を独占するゴスバンクが誕生しました。

シェインマンはその後、ドイツで貿易会社の会長を務めた後、イギリスにわたり旅行会社に勤めました。その後ソヴィエトに戻ることなく、イギリスで市民権を得てそこで亡くなりました。

二代目の理事長となったニコライ・トゥマーノフはロシア革命以前外交貿易銀行に勤務しており、ウクライナソ連の財務委員会で働いていました。1924年から1926年にかけてゴスバンクの理事長となり、その後も国家計画委員会や国家経済最高会議などの幹部会のメンバーとなりました。しかし1936年に逮捕され粛清されています。

二期目のシェインマンの後を継いだのがゲオルギー・ピャタコフで、サンクトペテルブルク大学で革命運動に関わったため除名され、アナーキストとして活動しました。その後レーニンが指導するロシア社会民主労働党に入党しています。ロシア革命以後精力的に活動し、国家計画委員会の副議長まで上りつめました。1929年にゴスバンクの理事長に就任しましたが、上手くいかずに翌年に解任されました。

ピャタコフはトロツキー派に属していたため、トロツキー失脚後に共産党から追放されました。1928年にトロツキーを批判することで復党が許されましたが、トロツキストの汚名を回復することができずに1936年に逮捕され、翌年に銃殺刑に処されました。

1930年から1934年までゴスバンクの理事長だったのは、ユダヤ人のモイセイ・カルマノヴィッチでした。当初は社会革命党に属していましたが、十月革命前に革命党を離れ、社会民主労働党に加わりました。西部戦線での食品委員会の委員長を務めた後、シベリア食品委員会で委員長を務めました。

1930年にゴスバンクの理事長となり、退任後は穀物と畜産農場の人民委員会に任命されました。カルマノヴィッチも1937年に逮捕され粛清されています。

1934年から1936年に理事長となったユダヤ人レフ・マリャシンも1936年に逮捕され、1937年に粛清、1936年から1937年に理事長を務めたユダヤ人のソロモン・クルグリコフもまた1937年に逮捕、翌年に粛清されます。後任のアレクセイ・グリチマノフも1938年に逮捕され、翌年粛清されました。

秘密警察NKVD

建国以来、ソヴィエトでは粛清が常時行われており、特に1937年と1938年の2年間は特に粛清された人数が多く、およそ70万人が殺害されました。

初期のソヴィエトの秘密警察である内務人民委員部NKVDの長官ゲンリフ・ヤゴーダ、ニコライ・エジョフ、ラブレンチー・ベリヤは悪名が高く、多くの命が奪われました。

ロシア商業銀行

中央銀行以外では、1922年にスウェーデンユダヤ人銀行家であった、オロフ・アッシュベリがソヴィエトで初めての国際銀行となったロシア商業銀行が設立されています。

スウェーデンのシャバンケン(新銀行)を経営していたオロフ・アッシュベリはロシア革命の頃から積極的にレーニンが率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキ政権を支援し続けました。

その見返りとしてアッシュベリはロシアで銀行業を創設することに成功しています。現在もロシア商業銀行は再編されたVEB.RFとして今も存続しています。

アッシュベリは後にスペイン内戦でも共産主義勢力である人民戦線に資金援助を行いました。このため第二次世界大戦時にフランスによって拘束・収容されました。解放後、家族とアメリカに亡命することに成功しています。

この時代、ユダヤ人銀行家の多くが共産主義勢力を支援していました。ソヴィエト連邦初期のゴスバンク理事長にユダヤ人が多くいたことも偶然のようには思えません。