ロシア革命後のソ連のユダヤ人による新共和国建設計画

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今回は【ロシア革命後のソ連ユダヤ人による新共和国建設計画】についてまとめていきたいと思います。

ロシア革命後のソ連ユダヤ人による新共和国建設計画

ロシア革命と内戦により、旧ロシア帝国地域では多くの人々が行き場を失いました。旧帝国地域に住むユダヤ人もまた生計を立てていた職業を失ってしまいました。このため、東欧のユダヤ居留地ユダヤ人の多くが大都市に移住しました。

1925年に、内戦に勝利したロシア共産党ソ連国内のユダヤ労働者に新しい入植地を提供することを目的としたコムゼットという委員会と、その補完する団体としてこれらの土地にユダヤ人労働者を定住させるオゼットという組織を作りました。

イギリスのソヴィエト大使館で働き、帰国後は作家や経済学者として働いていたユダヤ人のユーリ・ラーリンがオゼットの責任者となりました。ラーリンはスターリンと敵対したトロツキーに反対し、同時にロシアの富農から権利を剥奪することを提案し、ウクライナ・ソヴィエトでのロシア人差別を無くすことを主張していました。クリミアのユダヤ人入植地の一つはラーリンの名前を冠してラリンデルフと名づけられました。

コムゼットの創設メンバーの1人で、オゼットの委員長となったユダヤ人のセミョン・ディマンシュタインはオゼットの機関誌の編集長もつとめました。彼はロシア共産党プロパガンダ部門の元副部長でした。

ディマンシュタインはロシアの極東にユダヤ自治州を設立することを提唱し、南ウクライナや北クリミアにユダヤ人居住区をつくることに反対する記事を発表しました。彼は『ソヴィエト連邦ユダヤ人』と題する本の編集者となり、のちに極東のユダヤ自治州の首都となったビロビジャンでイディッシュ語雑誌の編集者となりました。

ウクライナや北クリミアにユダヤ人居住区を作りたかったラーリンは、ディマンシュタインが推進した極東のビロビジャンにユダヤ自治区を設立するという計画を批判し続けたため、厳しく検閲されることになりました。

オムゼットの理事会にはユダヤ人で舞台監督のソロモン・ミホエルスも名を連ねました。ラーリンは1932年に志半ばでモスクワで亡くなり、ディマンシュタインもまた1938年にスターリンの大粛清の犠牲になりました。

ミホエルスは大粛清の嵐を生き延びましたが、多くの仲間を失いました。1941年にモスクワでユダヤ人の集会を開き、同じくユダヤ人の小説家ダヴィト・ベルゲルソンらとともに国際的ユダヤ人コミュニティから資金を調達しました。

ミホエルスはこの年、ソロモン・ロゾフスキーらと共にユダヤ人反ファシスト委員会を創設します。ユダヤ人反ファシスト委員会はおよそ70名ほどの会員がおり、著名な詩人や作家もこれに参加していました。

しかし1948年にパレスチナでイギリスとアメリカを後ろ盾とするユダヤ人による新国家イスラエルが独立宣言を行うと、それと敵対するソ連ユダヤ人反ファシスト委員会の立場は一気に危険な立場になりました。

この年、ミホエルスは秘密警察により交通事故を装って殺害され、他のメンバーもクリミアにユダヤ人国家を建国する計画を企てていたとして起訴されます。1952年に少なくとも13人の作家や詩人ら主要メンバーが処刑されました。

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