内務人民委員部NKVD①チェーカー・GPU・OGPU

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スターリン時代の秘密警察、内務人民委員部(略称NKVD)は反革命分子と見なした人々の逮捕・尋問・処刑やスパイの摘発などを担当する機関でした。

NKVDの前身となるのはレーニン時代の1917年に創設されたチェーカーから始まり、1922年から国家政治保安部(GPU)、1924年から合同国家政治保安部(OGPU)に改組され、1934年に内務人民委員部となりました。

NKVDの最高責任者は初代長官ゲンリフ・ヤゴーダ、二代目長官ニコライ・エジョフ、三代目長官ラヴレンチー・ベリヤ、四代目セルゲイ・クルグロフと続きました。後にNKVDは国家保安人民委員部(NKGB)、国家保安省(MGB)を経て、国家保安委員会(KGB)へと発展していきました。

チェーカーから始まり、国家保安委員会(KGB)に至るまでの秘密警察のことをチェキストといいます。

 

 

ジェルジンスキー

1917年に創設されたチェーカー(反革命サボタージュ取締全ロシア非常委員会)はレーニンに絶大な信頼を得ていたフェリックス・ジェルジンスキーポーランド人[ユダヤ系?])の働きかけにより始まりました。

ジェルジンスキーは、ヴャチェスラフ・メンジンスキー(ポーランド人[ユダヤ系?])、アブラム・ベレンキー(ベラルーシユダヤ人)、ヨシフ・ウンシュリフト(ポーランドユダヤ人)、ヤーコフ・ペテルス(ラトビア人)らと共に反体制派の取り締まりを開始しました。

ジェルジンスキーは妻がユダヤ人のソフィア・ジェルジンスカヤであることもあり、ユダヤ人ではないかとも言われています。早くから労働運動を指導し、シベリアに流刑となり、その後、流刑地から脱出し、リトアニア社会民主党を創設し、更にポーランドリトアニア社会民主党を結成しました。

ジェルジンスキーはドイツで革命家のユダヤ人のローザ・ルクセンブルクと出会い、各国の共産主義運動の連携のために奔走しました。ポーランドで逮捕され、拷問を受けた後、ロシアに移送されましたが、二月革命が起こり、ロシア帝国が打倒されると、ジェルジンスキーは解放されました。

ジェルジンスキーボルシェビキ中央委員会書記局のメンバーとなり、革命で中心的な役割を担いました。その後、秘密警察の創立を主導し最高責任者としてチェーカーを率いました。チェーカーは政敵や反革命派、サボタージュを裁判なしで射殺するなど組織的なテロ行為を行いました。その後、組織はGPU、OGPUへと発展拡大し、ソヴィエトの中でもとりわけ大きな権力をもつ組織へと成長していきました。

ジェルジンスキーは1926年にモスクワで心臓発作のため倒れましたが、急死であったこともあり暗殺説が根強く残っています。後に「鉄のフェリックス」、「プロレタリア独裁の敬虔な騎士」として英雄視され礼賛されました。

メンジンスキー

ジェルジンスキーの後を継いだのは、彼と共にチェーカーの創設メンバーとなったヴャチェスラフ・メンジンスキーでした。ジェルジンスキーと同じくポーランド貴族として生まれました。

メンジンスキーの生まれた街では後に多数のユダヤ人がナチスによって取り締まりを受けているという記事があり、メンジンスキーもユダヤ人である可能性があります。また彼のいくつかの写真は彼がフリーメイソンであることを示しています。

1902年にロシア社会民主労働党に参加し、後に逮捕されましたが、ロシアを脱出し、社会民主労働党の海外支部で働き、編集員などをしていました。二月革命後にロシアに戻り、銀行を襲撃するなどのテロ行為を行いました。

チェーカーの幹部になり、OGPUの副長官に就任すると、長官のジェルジンスキーが急死したことを受けてその後を引き継ぎました。メンジンスキーは狭心症を患っており、スターリンは実質的な指導者となっていた副長官のゲンリフ・ヤゴーダに組織を任せていたようです。

メンジンスキーは1934年に亡くなり、スターリンによってNKVD長官に任命されたゲンリフ・ヤゴーダが大粛清を行うことになります。

トロツキートロイカ

ジェルジンスキーが心臓発作で亡くなる2年前の1924年ボルシェビキ政権の最高指導者レーニンが亡くなりました。レーニンの後継者と目されていた指導者、トロツキーカーメネフジノヴィエフスターリンの四人によって後継者争いが勃発します。カーメネフジノヴィエフスターリンはまず、トロツキーを追い落とすために、トロイカと呼ばれる連携を組みました。

このためトロツキーは党全体から反革命派と見なされるようになりました。しかし、次にカーメネフジノヴィエフが同じようにスターリンによって反革命派の烙印を押され除名処分を受けます。以後、トロツキーカーメネフジノヴィエフの三人が連携してスターリンからの権力脱却を目指しましたが、時すでに遅く、カーメネフジノヴィエフは逮捕され、トロツキーは亡命生活を送ることになりました。

トロツキーカーメネフジノヴィエフの三人はユダヤ人であったことから、ソヴィエトでは反ユダヤ主義の流れが形成されます。十月革命の指導者の多くがユダヤ人であったため、スターリン政権の大粛清以後、ソヴィエトにおけるユダヤ人の優位性はなくなりました。