フランス革命とオルレアン家

見出し画像

あまり日本では知られていませんが、欧米ではフランス革命は少なからず秘密結社イルミナティの策謀が絡んでいたと記した記録が残っています。

代表的な例として、初期に指導的役割を果たしたミラボーが挙げられます。ミラボータレーランやローザン公らと共にイルミナティから支援を受けていたとされています。また、パリの名家オルレアン公ルイ・フィリップ2世もまたイルミナティだったと記録されています。

これもあまり日本では言及されることはありませんが、フランス革命ではこのオルレアン家が指導的な役割を果たしています。この記事ではオルレアン家について解説していきたいと思います。

 

 

オルレアン家の起源

オルレアン公の称号はヴァロワ朝の初代フランス王フィリップ6世の時代から始まりました。

ヴァロワ朝は、カペー朝のシャルル4世が亡くなり、カペー朝の男系が断絶したことを受け、シャルル4世の伯祖父にあたるヴァロワ伯シャルルの息子フィリップ6世が即位したことから始まります。

フィリップ6世の息子で、後のフランス王ジャン2世の弟であるフィリップがオルレアン公を叙されたのがこの称号の起源となります。初代オルレアン公フィリップはカペー朝のシャルル4世の娘のブランシュと結婚していることなどもあり、オルレアン公爵位は非常に重要な爵位となりました。

オルレアン公フィリップ1世

イルミナティとなったオルレアン公ルイ・フィリップ2世の直接の祖先でオルレアン公を叙されたのは1660年の事です。

ブルボン朝ルイ13世の弟で、次の皇位継承者とされていたオルレアン公ガストンは、再三にわたりルイ13世と宰相のリシュリューと対立し、ルイ13世の死後、フロンデの乱の後にマザラン枢機卿によりブロワに追放され、死後、オルレアンの称号はルイ14世の弟のフィリップが受け継ぐことになりました。

子供時代のフィリップは「世界で最も美しい子供」と評され、ドレスを着させられるなど、しばしば女装をさせられていたとされています。このことから大人になっても女装癖がありました。

1649年からブルボン朝にはイギリスで処刑されたチャールズ1世の妻と娘が亡命していました。ルイ14世は彼女たちをリシュリューの邸宅だったパレ・ロワイヤルに住まわせていました。

1660年にフィリップはオルレアン公の称号を叔父から引き継ぎました。同じころ、チャールズ1世の娘ヘンリエッタは一時イギリスに戻りました。ヘンリエッタは美しく、話術にも優れていたため、マザランヘンリエッタとフィリップの縁談を申し込みます。

こうしてオルレアン公フィリップ1世とヘンリエッタが結婚し、同時にパレ・ロワイヤルもまた以後、オルレアン家の宮殿となりました。しかし、フィリップ1世は男色家であったため、ヘンリエッタに興味を示しませんでした。ヘンリエッタは三人の子供を設けましたが、夫婦間の関係は改善せず、1670年に26歳で急死しました。

一方、ルイ14世はパリの中心地であったルーヴル宮殿からヴェルサイユ宮殿に移ることになり、パリ市街でのオルレアン家の影響力が日増しに強まっていきました。

オルレアン公フィリップ2世

1671年、フィリップ1世はエリザベートと再婚し、エリザベートは後のオルレアン公フィリップ2世をもうけました。彼女は非常に多くの文通相手がおり、ライプニッツなどもその一人でした。エリザベートは『回想録』を残していますが、イギリスの作家のネスタ・ウェブスターは「吐き気を催す」として嫌悪感を表明しています。

ルイ・フィリップ2世はルイ14世とその愛人モンテスパン夫人の間の庶子のフランソワーズ・マリーと結婚しました。その子のルイがオルレアン公を継承し、その子のルイ・フィリップ1世がイルミナティとなったルイ・フィリップ2世の父親となります。

摂政であるオルレアン公フィリップ2世によって寛大に扱われていた人物にコンティ公ルイ・アルマン2世という貴族がいました。非常にサディスティックな性癖の持ち主でした。

1716年に売春宿で天然痘に感染し、妻にも感染させてしまいました。怒ったコンティ公は犯人を見つけ出し、復讐のために鞴を用いて肛門に空気を送り込み殺害しました。更に売春宿の主人を上半身裸にして馬車の後ろで引いて歩き、人々に罵声を浴びさせ、パリから追放しました。

コンティ公の妻ルイーズ・エリザベートも再三にわたる暴力や監禁によって苦しめられました。

オルレアン公ルイ・フィリップ2世

オルレアン公フィリップ2世の孫にあたるルイ・フィリップ1世はサディストと称されるコンティ公ルイ・アルマン2世の娘であるルイーズ・アンリエットと結婚することになりました。ルイーズ・アンリエットは非常に評判が悪く、醜聞が絶えず、二人の子供、ルイ・フィリップ2世もルイーズ・マリーもルイ・フィリップ1世の子供ではないと囁かれていました。

ルイ・フィリップ2世はパリから離れたモンソーの私有地に幻想的な公園を建設させ、パリの下層階級の女たちを集めて、モンソーに連れていき、酔わせて裸にして楽しんでいたとされます。モンソー公園は後にクロード・モネなど多くの画家が題材として作品を生み出しました。このようなエピソードによってルイ・フィリップの人格も見えてくるかもしれません。

ルイ・フィリップ2世には貴族社会の道徳の退廃や紊乱を描いた『危険な関係』の著者であるピエール・ラクロという臣下がいました。オルレアン派の革命運動はラクロによる働きが大きかったと言われています。またオルレアン派のによる革命の陰謀は1787年に3年前にバスティーユに囚われたブリッソーらが始めたとも言われています。

フランス革命の革命家はパリ市民と表現されることが多いですが、ブルジョア階級の革命家の素性は、一般的に想像するような市民とはかけ離れたものでした。

革命の結果とその後のオルレアン家

オルレアン公はルイ16世の処刑に賛成し、1793年1月にルイ16世をギロチンにかけることに成功します。最大の目的を達成したルイ・フィリップ2世でしたが、4月には息子のルイ・フィリップオーストリアに投降したこともあり、ジロンド派によって共和制転覆と王位簒奪の容疑で逮捕され、11月に革命広場でギロチンにかかりました。

その後の話になりますが、革命はナポレオンによって終止符が打たれました。更にナポレオンが失脚し、更にブルボン朝七月革命で倒されると、かつてミラボーらと行動を共にしていたラ・ファイエットらの活動により、オーストリアに投降し、その後、各地を転々と亡命生活を送っていたルイ・フィリップがフランスの国王として擁立されました。二月革命によって倒されるまで、17年半の間、フランスはオルレアン家の王国でした。

最後に

ここではオルレアン家がどのように成立し、発展してきたかを手短に紹介しました。最後までお付き合いいただきありがとうございました。ご感想などありましたら、気軽にコメントください。