こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。
今回はロシア社会民主労働党(ボルシェヴィキ)第6回大会の内部構造についてまとめます。記事中には私個人の偏見や認識の誤りも含まれていると思います。その点のご理解のほど、よろしくお願いいたします。
ロシア社会民主労働党(ボルシェヴィキ)第6回大会
沿革
ソヴィエト連邦共産党は1898年に結成されたロシア社会民主労働党を起源としており、そのうちの二大派閥ボルシェヴィキとメンシェヴィキの内、ボルシェヴィキが発展したことで成立した政党です。
ロシア社会民主労働党は、ロシアの政治家ピョートル・ストルーヴの働きかけにより現在のベラルーシの首都であるミンスクで会合が開かれました。4つの地域の労働者階級解放のための闘争連合の代表者がそれぞれ一名の計4名、リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟のメンバー3名、社会民主主義の労働者新聞ラボチャヤ・ガゼータの3名の計10名によるロシア社会民主労働党第1回大会がその後のソヴィエト連邦共産党の一つの起源になりました。
この時のメンバーのほとんどが結成直後にロシア帝政によって逮捕されたため、第2回大会から第5回大会までは、ヨーロッパの亡命者によって開催されました。
1903年に開かれた第2回大会はベルギーのブリュッセルで開催され、ロシア大使館からの圧力を逃れるために最後はロンドンに移りました。1905年にはロンドンで第3回大会が、1906年にストックホルムで第4回大会が、1907年には再びロンドンで第5回大会が開かれました。
亡命者時代のロシア社会民主労働党大会は日露戦争前後に集中しており、ロシア帝政が日露戦争とその直後の血の日曜日事件を発端としておこった1905年のロシア第一革命により揺らいでいた時期と重なります。
第5回大会以後長く開催されていなかったロシア社会民主労働党大会です。ロシアが1917年の二月革命によって揺らいだ後、ペトログラードに亡命もしくは流刑されていた革命家が集結しました。
二月革命により、ロシアはロシア帝政を打倒した勢力が中心となった臨時政府と、社会主義勢力のペトログラード・ソヴィエトという二重権力構造になっていました。
社会民主労働党はペトログラード・ソヴィエトに属し、革命によってプロレタリア独裁を目指すボルシェヴィキは、レーニンを筆頭に臨時政府打倒の機会を窺っていました。
しかし、7月に入り兵士や労働者の不満が爆発し、武装デモが起こると、ボルシェヴィキは当初これを抑え込もうとしましたが、やがて抑えきれずに、デモを支持する姿勢へと転じました。しかしデモが鎮圧されると、デモはボルシェヴィキの過激派による扇動によるものと見なされ、トロツキー、カーメネフなどが逮捕、レーニンとジノヴィエフは潜伏するなど、ボルシェヴィキの指導者たちの多くが失われました。この時のデモを七月蜂起といいます。
七月蜂起の後にペトログラードで開催されたのが社会民主労働党第6回大会でした。
中央委員会
第6回大会で中央委員会のメンバーが選挙によって選ばれました。選挙では七月蜂起によって逮捕・潜伏したメンバーも含まれており、実質的にはスターリンおよびスヴェルドロフが中央委員会において指導力を発揮しました。
英語版のWikipediaには1917年の構成員が記されていますが、十月革命直前に再びレーニンらが復帰するまで次のメンバーが、中央委員会を主導していたものと思います。
アンドレイ・ブブノフ(1883-1938)・・・ロシア人、初期のボルシェヴィキのメンバー。
フェリックス・ジェルジンスキー(1877-1926)・・・ポーランド貴族の生まれ、妻がユダヤ人であり、しばしばユダヤ人として言及されている。「鉄のフェリックス」の異名をもつ秘密警察の初代長官
アドリフ・ヨッフェ(1883-1927)・・・カライ派のユダヤ人の家系。後にブレスト・リトフスク条約の時のソヴィエト代表団の団長。
ウラジーミル・ミリューチン(1884-1937)・・・ロシア生まれ。当初はメンシェヴィキのメンバーだったが、後にボルシェヴィキに転向。
マトヴェイ・ムラノフ(1873-1959)・・・ウクライナ生まれ。初期のボルシェヴィキのメンバー。
ヤーコフ・スヴェルドロフ(1885‐1919)・・・ロシア生まれのユダヤ人。後の全ロシア中央執行委員会議長。
グリゴリー・ソコリニコフ(1888-1939)・・・現ウクライナ生まれのユダヤ人。レーニンと共に封印列車によりロシアに帰国していた。
ヨシフ・スターリン(1878‐1953)・・・現グルジア生まれ。後のソヴィエト共産党書記長。
イェレーナ・スタソヴァ(1873‐1966)・・・ロシアの貴族の生まれで、弁護士の娘。最初期からのロシア社会民主労働党のメンバー。
モイセイ・ウリツキー(1874‐1918)・・・現ウクライナの生まれのユダヤ人。後のペトログラード・チェーカーの責任者。
ステパン・シャウミャン(1878‐1919)・・・現グルジア生まれ。後のバクー・コミューンの指導者。
書記局
ペトログラードのメンバーはこの中から書記局のメンバーを選出します。書記局のメンバーとなったのは次の5人。
アドリフ・ヨッフェ
マトヴェイ・ムラノフ
ヤーコフ・スヴェルドロフ
イェレーナ・スタソヴァ
政治局
十月革命前夜、主要メンバーがペトログラードに帰還し、一カ月半ほどですが政治局のメンバーが選出されます。会合は一度も開かれなかったようです。
アンドレイ・ブブノフ
レフ・カーメネフ(1883‐1936)・・・ユダヤ人。ジノヴィエフと共に十月蜂起に反対した。
グリゴリー・ソコリニコフ
ウラジミール・レーニン(1870‐1924)・・・ユダヤ人。10月にペトログラードに帰還し、武力蜂起を主導した。
レオン・トロツキー(1879‐1940)・・・ユダヤ人。8月7日に逮捕されたが40日後に釈放された。9月にペトログラード・ソヴィエト議長に就任し、軍事革命委員会委員長として軍事蜂起を指導した。
グリゴリー・ジノヴィエフ(1883‐1936)・・・ユダヤ人。革命以前は常にレーニンと共に行動した側近中の側近。カーメネフとともに武力蜂起には反対した。
政治局は短期間で任期を終え、局(ビューロ)がその代わりに置かれました。メンバーはレーニン、スターリン、スヴェルドロフ、トロツキーの4人であり、革命直後はこの4人がボルシェヴィキ政権を取り仕切りました。
主要メンバー不在期にボルシェヴィキを取りまとめたスターリンとスヴェルドロフの2人と亡命時代からボルシェヴィキを主導してきたレーニンとトロツキー2人の影響力が強かったというのは想像するに難しくありません。更にこの4人は十月革命の武力蜂起を断固支持したメンバーでもありました。
レーニンの後継者と目されていたカーメネフとジノヴィエフの2人は以後、武力蜂起に反対したことが常に議論になり、求心力を失っていきました。
関連記事
ロシア社会民主労働党(ボルシェヴィキ)第6回大会 - 幻想の近現代
ロシア社会民主労働党(ボルシェヴィキ)第6回大会――重要人物 - 幻想の近現代
最後に
最後までお付き合いいただきありがとうございました。もし記事を読んで面白かったなと思った方はスキをクリックしていただけますと励みになります。
今度も引き続き読んでみたいなと感じましたらフォローも是非お願いします。何かご感想・ご要望などありましたら気軽にコメントお願いいたします。
Twitterの方も興味がありましたら覗いてみてください。こちらよりも少し口が悪いですけれど気にしないでください。
今回はここまでになります。それではまたのご訪問をお待ちしております。
世界が一日もはやく呪われた微睡の日常から目が覚めますように。