憶測や噂話から距離を置こう

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今回は推論についての個人的な考えをお話ししたいと思います。記事中には私個人の偏見や認識の誤りも含まれていると思います。その点のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

この記事は2022年7月19日に別サイトで掲載したものです。安倍晋三元総理暗殺事件直後に問題提起したものです。

 

 

憶測や噂話から距離を置こう

昨今の情報社会にあって私たちは様々な憶測や噂話の中で暮らしています。これらの憶測や噂話は私たちにとって真新しいものではありませんが、かつての前情報化社会ではそれは身内的な、あるいは地域的なトピックについての憶測や噂話がほとんどすべてでしたが、現在の情報社会ではより国家的な、あるいはよりグローバルなトピックについての憶測や噂話で溢れかえっています。

これらの憶測や噂話は人間が物事を観察し、更に分析し、推理する能力によって発現されるものと言っていいかもしれません。物事を推理する能力というのは私たちが生存していく上で非常に重要な能力の一つと言えるかもしれません。

しかしながら、私たちが知らなければならないのは、これらの憶測や噂話の根幹をなしている私たちの理性の一つである推理する能力がどの程度の正確性を持っているかというものです。

私たちが事実として認識している多くの物事も、実際は多くの仮説の蓄積であるということが分かります。私たちの信念の基礎を固めているものを遡及していけば、いつかは何ものにも基礎づけられていない信念にぶつかります。私たちは必ずしも確かな仮説に基礎をおいているわけではありません。言い換えますと、私たちは必ずしも確かではない仮説に頼らざるを得ません。

仮説には3種類のものが存在するということをアメリカの哲学者のチャールズ・サンダース・パースが分析して見せました。パースによればこの分類法はアリストテレスによって既に見出されていたと言われています。

一つは演繹法と呼ばれるもので、フランスの哲学者ルネ・デカルトが重視した方法です。これは一般的ないわゆる三段論法の一つです。例を挙げると、「彼はクレタ人である。」「クレタ人は嘘つきである。」「ゆえに彼は嘘つきである。」というステップを踏む仮説の形式です。

二つ目は帰納法と呼ばれるもので、イギリスの経験論の哲学者フランシス・ベーコンが重視した方法です。帰納法というのは、「私が見てきた白鳥は白い。」「ゆえにすべての白鳥は白い。」というステップからなる仮説の形式です。

三つ目の方法はアブダクションと呼ばれるもので、チャールズ・パースによって掘り起こされた仮説の形式です。アブダクションはよく推理などと比較して論じられることがありますが、推理小説の犯人捜しの手法でおなじみのあの方法と考えるとわかりやすいかもしれません。

パースはこれらの3つの仮説の形式のうち、帰納法アブダクションについて、確固とした方法ではないことを指摘しました。

これは言い換えますと、どんなに優れた帰納法アブダクションであっても、間違っている可能性が十分にあるというものです。換言すれば、正しいと見做すことの方が無理があるとさえいえるもので溢れている可能性さえあります。

暗殺事件の真相、あるいは、巷の陰謀論というのは、非常に多くのバリエーションで溢れています。情報社会である現代にあって、一つのトピックについての推論のバリエーションを列挙していくことは難しい作業ではないでしょう。

しばしば真実は一つという言葉がありますが、もし真実が一つであるとしたならば、これらの膨大なバリエーションをもった憶測や噂話の多くが間違いであるということになります。そのうちの一つが真実であるか、あるいはどこにも真実がないということになるかもしれません。

また同時に、これらの膨大な間違った憶測や噂話の中に部分的に確からしい何かがあるかもしれないということもまた否定できないというのも事実だと思います。

3時に食べようと思っていたお菓子が冷蔵庫の中から消えていた場合、誰が犯人なのかを理性によって、私たちの推論する能力によって捜すことが、全く無意味ではないように、確かに何かしら本当の真実に迫れるかもしれないという側面は十分にあるかもしれません。

しかしながら、一方で私たち個人個人ではとても検証しきれないような問題については3時のおやつを奪った犯人捜しのようには、大抵の場合は同じようにはならないというのも事実でしょう。

更に国家的な問題、国際的な問題については、本人の政治的信念や歴史的な知識が逆に物事を推理する上でバイアスとなって、その推論を曇らせるということも十分にあると思います。人は何よりも自分が信じたいものを信じる傾向がありますが、人間の理性の構造としてこれを乗り越えるのはほとんど不可能であるように感じられます。

陰謀論批判が実際に有効であるのは、私たちの憶測や噂話がほとんど正しいとは言えないこと、そして私たちの理性には限界があるということなどがあげられると思います。そして良し悪しはともかく陰謀論批判は、実際に正しい側面があると言えると思います。

逆に言いますと、陰謀論批判が有効であるがゆえに、社会では陰謀が非常に有効であるということです。世界各国には多くの情報機関があり、更には様々な私的な政治団体や宗教団体が存在しますが、これらの情報機関や政治・宗教団体が全く何の陰謀も企てていないなどということもあり得ない話であり、世界は陰謀で満ち溢れているというのは事実でしょう。

嘘だらけの陰謀論、非常に有効な陰謀論批判、そして非常に有効な陰謀から構成されている不条理な世界が現代の世界のように思われます。陰謀論に振り回されないためにも複数の情報を精査しながら、同時にシンパシーを感じ過ぎないようにすることも重要であると思います。また陰謀論批判にも耳を傾けながら、有効な論理の筋道を構築することも重要であると思います。こちらもシンパシーを感じ過ぎるのは危険であると思います。

歴史的な資料をもとに、私たちの知らない歴史を掘り起こすことも有効だと思いますが、一方である程度、論理的な整合性を模索しながら、事実に迫っていく必要があると思います。あまり過度にニュースのトピックに入れ込み過ぎないようにするためにも、歴史や哲学といったものにも目を向けることも必要ではないかと思われます。目の前の陰謀論にとらわれ過ぎないように、目の前のプロパガンダにとらわれ過ぎないようにすることも時には必要な気がします。

最後に

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