陰謀論という概念についての考察

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陰謀論という言葉について、この言葉の歴史的な経緯などはともかく、抽象論的な考察を行いたいと思います。

 

 

陰謀の一般的な定義

陰謀という言葉を辞書で引くと、「ひそかにたくらむ悪事。また、そのたくらみ。」「法律で、二人以上の者が一定の犯行行為について計画・相談すること。」とあります。

ちなみに、陰謀論と呼ばれるものは欧米社会発祥であることから、英語でも調べる必要があるでしょう。陰謀とは英語でConspiracyといいます。他にもいくつか類義語がありますが、陰謀論と呼ばれるときの陰謀はこのConspiracyになります。

Conspiracyの辞書的な意味は「違法または有害なことをするための集団による秘密の計画。」「企みや陰謀の行為。」とあります。

まず、陰謀とは何らかの目的を持った計画であり、また、その計画を実際に行う事を指しています。この計画および実行は不法であるか、不道徳であるか、不利益をもたらすものであるか、宗教的に悪いことであるかが条件となります。

そして、陰謀とは秘密であるということです。世間一般に公開されていない計画やその計画に沿って実際に行う事です。

最後にそれらの計画は二人以上の集団によって計画され、実行されるという事です。最後の条件である集団であるというものは、ひとりでこれらの計画を実行する時、大きな計画を立案し、実際にその計画を行い、その結果としての利益を獲得することが極めて困難です。

ひとりによる計画と実行は言葉の使用上一般的に陰謀とは呼ばずに、単に個人による計画的な犯行あるいは行動という別の概念や意味づけによって定義されるのが普通ではないかと思います。

まとめますと、
陰謀とは、
計画、またはその計画を実行すること
であり、

陰謀と呼ぶための条件として、
① 不法・公序良俗に反する・悪である
② 世間一般に公開されない秘密のものである
③ ひとりによらない複数の集団によるものである
という3つの条件があることに注意する必要があります。

陰謀論の一般的定義

次に陰謀論とは何かについて考えます。

陰謀論とは、何らかの陰謀が存在しているとされ、その特定の陰謀についての議論を指して言います。さて、世間で様々な陰謀について議論されるわけですが、その対象はべき乗則に従います。

様々な商品や書籍などの売り上げがこのべき乗則に従うように、陰謀論べき乗則に従って議論される陰謀とほとんど議論されない陰謀とに分かれます。従ってべき乗則に従って数多く議論されるもの、全体の陰謀論の内8割を占める議論を、一般的な意味で陰謀論と呼んでいるのではないかと思います。

簡単に言ってしまえば、ユダヤの陰謀またはイルミナティフリーメイソンの陰謀というものが、世間一般で一般的に言われる陰謀論であり、これにどのくらい関係するかで陰謀論と呼べるか呼べないかが決まってくると思います。あくまでもこれは感覚的なものでしかありません。

従ってアポロ計画陰謀論なども、ユダヤ陰謀論イルミナティフリーメイソン陰謀論との関わりにおいて陰謀論的と感じるのかもしれません。

陰謀は存在するのか存在しないのか

さて、陰謀論はともかく、陰謀という概念に立ち返ることにしましょう。

私は陰謀について3つの条件を提示しました。

① 不法・公序良俗に反する・悪である
② 世間一般に公開されない秘密のものである
③ ひとりによらない複数の集団によるものである

でしたね。

人間が生きていく上で、物事を計画し、その計画を実行するという事そのものは普通のことです。日常的なことで誰しもが行うことです。これらの3っつの条件を満たさない計画とその実行は世の中に溢れています。

会社にいくことも、勉強することも、買い物にいくことや料理をつくることさえも、計画があり、その計画をもとに実行したものです。私たちが想定しうる計画の内、3つの条件が揃えば、陰謀と見なされて仕方がない行為になります。

しかも、3つの条件の内、2つは確実に常に揃っていると考えられるようなものです。

② 世間一般に公開されない秘密のものである
③ ひとりによらない複数の集団によるものである

この2つの条件はたいていの場合、既に揃っていると考えるのが普通でしょう。

ある会社が他のライバル会社にすべての情報を公開するでしょうか?
日常品がどのような過程を踏んで私たちの手に届いているのか完全に公開されているでしょうか?
世界の多くの会社組織はひとりで営まれているでしょうか?

このように考えると、私たちの計画が陰謀になるための2つの条件は、ほとんど不可避的なものであることが解ります。あとは、不法行為であるか、公序良俗に反するか、悪いことかというそれだけのことです。

そして近年、日本ではブラック企業の存在が社会問題化していますが、会社組織などが不法行為を働いたり、公序良俗に反することを行ったりすることは普通のこととなっています。もちろん解釈次第でいくらでもそれをひっくり返すことはできます。

ここで議論していることは陰謀の条件についての話です。私たちにとっての計画とその実行の内、陰謀となる条件の2つはほとんど不可避的であるといいました。そして最後の条件となる部分でも、解釈次第で普通に条件を満たしていると考えられるようなものです。

結論を言いますと、世間に陰謀があるかないかという話でいうと、解釈次第でほぼ全ての会社組織がもしかすると陰謀を企てていると見なされる可能性があります。概念として捉えるとそういうものです。

あとは一つ一つの事実を突き詰めていき、実際に問題があるか、ないかを考えるだけの話であり、陰謀が存在するか存在しないかという議論は空虚です。

陰謀論を考える

世間に陰謀が存在するのか、しないのかという議論がどれだけ無意味なのかは述べた通りですが、これは陰謀論についても言えます。世間一般で陰謀論と呼ばれているもの、つまりユダヤ陰謀論イルミナティフリーメイソン陰謀論もあるかないかの議論をする意味はなく、単にそれが事実としてどうかを検証していく作業を行っていくか行かないかの話となります。


陰謀論についていえば、実際に事実ではないものも多く含まれていると考えるべきです。実際に陰謀論の多くは間違っています。それは私たちの歴史や政治理論や科学が間違っているのと同じように間違っているという言い方もできます。

もちろん陰謀論の内、その議論の多くが想像による創作的なもので溢れているのも事実でしょう。しかし、これは歴史や政治理論や科学も無関係とは言えません。最もその程度に小さくない差があるかもしれないのは確かです。

しかし、陰謀論の多くが創作によるものだという理由で、それ以外の陰謀論がすべて間違っているという議論には残念ながらなりません。

これは白い白鳥しか見たことのない人間が、黒い白鳥は存在しないと断定する帰納法的議論です。もしかすると実際に正しいかもしれませんが、基本的には正しいと断定することはできないのです。