【知ってはいけないロシアの革命家】モイセイ・ウリツキー

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今回はモイセイ・ウリツキーの英語版Wikipediaの翻訳をします。翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれませんが、大目に見てください。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

 

 

序文

モイセイ・ウリツキーの情報は、日本語版、英語版ともに情報量が乏しい状況にあります。今後ロシア語版も翻訳したいと思いますが、とりあえず基本的なことを抑えたいので英語版のみを翻訳します。

モイセイ・ウリツキー

Moisei Uritsky - Wikipedia

モイセイ・ソロモノヴィッチ・ウリツキー(1873年1月14日から1918年8月17日)はロシアのボルシェヴィキの革命家である。10月革命後、ペトログラード・ソヴィエトのチェカー長官を務めた。ウリツキーは軍士官候補生レオニード・カネギセルによって暗殺され、カネギセルは直後に処刑された。

家族

ウリツキーはキエフ州チェルカシュのユダヤリトアニア人の家庭に生まれた。商人であった父はモイセイが幼い頃に亡くなり、母は女手一つで息子を育てた。ビラ・ツェルクヴァ・ギムナジウムに通い、教職に就いて身を立て、社会民主主義者として活躍した。

政治家としての初期キャリア

モイセイはキエフ大学で法律を学んだ。在学中にロシア社会民主労働党に入り、政治的文献の輸入と配布のための地下ネットワークを組織した。1897年、違法なガリ版印刷機を経営していたため逮捕され、国外に追放された。革命運動に参加するようになり、革命的ユダヤ人同盟に参加。1903年メンシェヴィキとなる。1905年、ペテルブルクでの活動により、2度目の国外追放を受ける。アレクサンドル・パルヴスとともに、ロシア皇帝保安機構に潜入する革命工作員の派遣に活躍した。

ロシア革命

1914年、フランスに移住し、党機関紙『わが言』に寄稿した。1917年、ロシアに戻ったウリツキーは、ミジライオンツイ(訳注:中国語では区連派と訳されるボルシェヴィキメンシェヴィキの間の中間的派閥)の一員となった。1917年の十月革命の数ヶ月前にボルシェビキに参加し、1917年7月に中央委員に選出された。ウリツキーは10月のボルシェビキ武装蜂起で主導的な役割を果たし、後にペトログラードチェカーの長官となった。この地位でウリツキーは、ボルシェヴィキに反対する貴族、軍人、ロシア正教会の高位聖職者の追及と訴追を調整した。

ウリツキーはブレスト・リトフスク条約に反対していたので、ブハーリン、ブブノフ、ピャタコフ、ジェルジンスキースミルノフと同様に1918年に職を辞した。1918年3月4日、ペトログラード委員会は、ラデックとウリツキーの指示で、「左共産主義」反対派の公共機関である雑誌『コミュニスト』の第一号を発行した。1918年3月6日から8日にかけて開催されたボルシェヴィキ党臨時第7回大会は、「左翼共産主義者」が決議として提出した「現況に関するテーゼ」を否決した。中央委員に選出された「左翼共産主義者」ロモフとウリツキーは、大会で中央委員会で働かないことを表明し、中央委員会の執拗な要求にもかかわらず、数ヵ月間中央委員会で仕事を始めなかった。

1918年5月25日、チェコスロバキア軍団の反乱により、ロシア内戦が始まり、ウリツキーは中央委員会の役職に復帰した。

暗殺

1918年8月17日、帝政ロシア軍の若き士官候補生レオニード・カネギセルが、友人らの処刑に対する報復として、ペトログラードチェカー本部の外でウリツキーを暗殺した。この事件と、8月30日のファニー・カプランによるレーニン暗殺未遂事件をきっかけに、ボルシェヴィキは「赤色テロ」と呼ばれる迫害を開始した。ペトログラードの宮殿広場は、1918年から1944年までウリツキー広場と呼ばれていた。

感想

ウリツキーの暗殺、およびレーニンの暗殺未遂犯がともにユダヤ系であることは興味深いものがあります。反共のユダヤ人の存在が確認できるとともに、ユダヤ人が暗殺という選択を、他のロシア人よりも選び取る傾向にあるとも解釈できそうです。その是非については、あまり検討しても仕方がありませんが、十月革命後の情勢不安をよく表しているように思えます。一説にはスヴェルドロフも病死ではなく、暗殺されたという情報もあります。

いずれにせよ、少し情報が少なく、実際にウリツキーがどういった役割を果たし、どのようなことを考えていたのかまでは、この記事からだけではあまり知ることができません。あくまでも大まかな外観くらいは想像できるという意味では興味深い情報を含んでいるとおもいます。アレクサンドル・パルヴスとの接点があったというのは初耳でした。

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最後に

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