リュック・ヌフォンテーヌ『フリーメーソン』

見出し画像

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回はリュック・ヌフォンテーヌ『フリーメーソン』からの引用とそれについての個人的な考えをお話ししたいと思います。記事中には私個人の偏見や認識の誤りも含まれていると思います。その点のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

 

 

序文

これまでフリーメイソンについて、記事で何度か触れてきましたが、リュック・ヌフォンテーヌの『フリーメーソン』と、その著作についての意見を述べていませんでしたので、この記事で取り上げたいと思います。

カトリック教会とフリーメイソン

イタリアではメーソン弾圧の動きは都市国家ごとに異なった。しかし1738年、教皇クレメンス12世はメーソン破門の決定を下した。その理由はまず、いくつかの国でフリーメーソンの集会が禁止されていたことで、次に宗教的理由をあげている。ロッジでは「あらゆる宗教・宗派」の人間が席を同じくする。そのことだけでも、そこに参加するカトリック教徒を「異端の疑い濃厚」と見るに十分だった。プロテスタント、さらにはユダヤ教徒などと付き合ううちに、カトリック教徒の信仰は変質しかねない。しかも秘密があって、それを守る誓いを立てているとなれば、そこには当然、反道徳的で非難すべき態度がカモフラージュされているではないか。次代教皇ベネディクトゥス14世も1751年、このクレメンス12世の破門路線を継承した。しかし破門状がフランスでは効果がなかった。1801年に政教和約が結ばれるまで、フランスでは18世紀の教皇令は議会を通さないと法的効果を持たなかったが、この二通の破門状は議会により公布されなかったからである。したがってロッジに大勢いたカトリック教徒も聖職者も、破門状など意に介さなかった。

 

フリーメーソン』p50

18世紀のフランス革命前夜のカトリック教会とフリーメイソンそしてカトリック教会以外の諸宗派・諸宗教がどのような関係だったのかが分かる文章です。フランス革命フリーメイソンの陰謀であるという説は様々なところから提示されていますが、中でも有名なものの一つが、神父のオーギュスタン・バリュエルの『ジャコバン主義の歴史のための覚書』(1797)です。以前に紹介していますが、バリュエル以前にも、フランス革命フリーメイソンが関わっていたことを示す著作は存在しています。

フリーメイソンによる陰謀論への批判として、リュック・ヌフォンテーヌは三部会にフリーメイソンがいたことを認めていますが、それぞれに意見がバラバラで、統一見解も、統一行動も持っていないとしています。この主張は実際に正しいと思いますが、しかしながら、メイソンのメンバーが互いに通じていたかといえば、恐らくある程度の繋がりがあっただろうということは推測に難しくありませんし、メイソン全体として統一見解や統一行動を持っていないとしても、それぞれのロッジや派閥では一定の統一見解や統一行動は見て取れます。

フランス革命以来、フリーメイソンの理想である、自由・平等・友愛の内、確実に最初の二つ、自由と平等の理念を全人類に普遍的な価値であるとして宣伝し、それに従うようにすることに成功しています。現在の人権思想も自由と平等という価値の普遍化は確実にフリーメイソンの意志によるものといっても言い過ぎではありません。

パリ・コミューンフリーメイソン

1870年9月ナポレオン3世普仏戦争に敗れると、ただちに第三共和政が宣言された。そして翌年3月には初の労働者階級主導の革命自治政権、パリ・コミューンが誕生する。コミューンは教会財産を没収し教会を閉鎖、修道士を人質にした。およそ70名のコミューン議員のうち、16人がメイソンだった。コミューンの反教権主義もメーソンの仕業なのだろうか。実際には、積極的に反乱と反教会活動に加わるメーソンもいれば、和平を説くメーソンもいた。パリ・コミューンの参加者の中に多くのメーソンがいたとはいえ、フランス革命同様、パリ・コミューンはメーソンの所産なのではない。

 

フリーメーソン』p64

 

パリ・コミューンバリケード上にはためくメーソン旗
1870年4月29日、何千人ものメーソンがパリ・コミューンの代表団に護衛されてパリをデモ行進した。彼らはパリ市庁舎で議員らに迎えられた後バリケードに上り、そこにメーソン旗を立てた。すると攻囲軍は攻撃をやめたと伝えられる。

 

フリーメーソン』p64

パリ・コミューン議員に多くのフリーメイソンが参加していましたが、付け加えなければならないのは、パリ・コミューン議員には、多くの第一インターナショナルのメンバーである共産主義者無政府主義者がいました。

フリーメイソンを語る上で、第一インターナショナル第二インターナショナル、第三インターナショナルコミンテルン)、第四インターナショナルなどについて言及する必要があると私は思っています。何故、歴史上、この非公式な国際的仲良し組織に過ぎないようなものがこれほどまで重要視されているのかを私たちは知る必要があります。

カトリック教会とフリーメーソンおよびユダヤ

フランス革命メーソン陰謀説」をとなえたバリュエルに続き、19世紀初めにはフランス革命はメーソンとユダヤ人の陰謀であると主張する人々が現れた。ユダヤ人に市民権を認めることによってフランス革命ユダヤ人を解放したが、それは革命を企てたのがロッジだからだというのである。
19世紀を通じ、カトリック教会は激しくメーソンを攻撃した、歴代のローマ教皇の度重なるメーソン批判を後ろ盾に、カトリックの反メーソン感情は19世紀末に頂点に達した。歴代教皇がメーソンの無神論や秘密主義、非合法性、革命的・反道徳的性格を告発した公文書は全部で10ほどにのぼる。まず1821年、教皇ピウス7世が革命的秘密結社のカルボナリ党員をフリーメーソンと同一視して非難した。1825年にはレオ12世が秘密結社に属する者すべてを糾弾し、それを4年後にはピウス8世が、1832年にはグレゴリウス16世が踏襲し、さらにピウス9世は数度にわたって繰り返した。1884年にはレオ13世が回勅「フマヌム・ゲヌス」の中で「神と教会を(政治や教育などの)現世のことから遠ざけ」ようとするメーソンの態度を公然と非難した。これらの非難に使われたメーソン=悪魔のテーマを反メーソン陣営を偏執的なまでに増幅させていく。

フランス革命フリーメイソンユダヤ人による陰謀であるという説が19世紀初めには既に存在していたようですが、実際に20世紀初頭に起こったフリーメイソンによるロシアで起こった十月革命の首謀者の多くがユダヤ人であったという事実からも、フリーメイソンユダヤ人の関係性については現在も多くの人々の間で議論されています。

カトリック教会によるフリーメイソン批判には悪魔崇拝と結びつける傾向があります。しかし、私たちが注意しなければならないのは、基本的にカトリック教会は、非カトリック的なものは何であれ悪魔的なものとして表現する傾向があるということです。これはカトリック教会に限らず、キリスト教全般について言えることだと思いますが、反キリストでなく、非キリスト教的なものも、もちろん洩れなく悪魔的なものとされます。

これが実際のフリーメイソンの活動が実際にどういった活動なのかというものを曇らせます。しばしばフリーメイソンにとっての神は、ルシファーやバフォメットと呼ばれる悪魔であるとされていますが、フリーメイソン自体が秘密主義的なところがあるために、これらの情報をどこからどこまで信じていいのかが判然としません。

ただし、フリーメイソンの加入条件が、神を信仰しているという点からも、これらの説は、実際には有力な説として排除できない所があります。フリーメイソンの加入条件は「特定の神」、例えばヤハウェという風に進行する神を限定していません。従って、それがルシファーであろうと、バフォメットであろうと、例えば子供を生贄に捧げるバアル神やモレク神でも、インドの破壊神であるシヴァ神でも構わないわけです。

そういう意味では、カトリック教会がフリーメイソン悪魔崇拝だという批判は確かに妥当性のある批判には思えますが、ただ、日本のように特定の神にあまり執着しない文化の影響を受けている私の感覚としては、悪魔崇拝というカテゴリは、やや大きい括りに感じられます。

イタリアとロシアのフリーメイソン

イタリアでは19世紀、メーソンが特に国家統一運動で積極的な動きをみせ、その結果教皇領の保全を脅かす勢力となった。こうしてイタリアでもまた、教会対メーソンの果てしない紛争が始める。加えてイタリアには1821年からナポリ王国で発展した革命的秘密結社、カルボナリ党の問題があり、2人の有名なメーソン、ガリバルディとマッツィーニが非常に活発な活動をしていた。2人はまた強硬な反教皇主義者でもあった。スペインとポルトガルではメーソンは19世紀以降、反教権主義の闘争姿勢を強めるが、集会は秘密裡に開かなければならないことが多かった。

ロシア帝国でメーソンが完全に廃止されたのは、共産政権が樹立された1917年ではなく、1821年(皇帝アレクサンドル1世の勅令)のことである。ポーランドハンガリーチェコスロヴァキアでは19世紀、フリーメーソンが何度か禁止される時期があった。

 

フリーメーソン』p76

マッツィーニ派がロンドンではじめて開かれた第一インターナショナルで当初指導的な役割を示そうとしたことは有名ですが、第一インターナショナルには、いずれにせよ、各国の秘密結社員の影がちらつきます。マッツィーニ派がロンドンで活動していた頃、イギリスにガリバルディが熱狂的な歓迎を受けていたという事実がありますが、これにもフリーメイソンが関わっていたのではないかと個人的には思います。

ロシアではフリーメイソンが廃止された頃から、ロシア皇帝は何度も秘密結社員による暗殺や暗殺未遂にあっています。ナロードニキによる虚無主義がテロを生んだというのが定説ですが、調べてみると、暗殺犯は概ね秘密結社員であることが知られていました。

フリーメイソンを禁止したのがボルシェヴィキ政権であると世間的にみられているかのように筆者はここで誤った誘導をしている節があります。なぜなら、筆者がボルシェヴィキ政権こそがユダヤフリーメイソンによるロシア帝国転覆の陰謀だったという説を知らないはずがないからです。

アメリカとフリーメイソン

19世紀は合衆国のメーソンの拡大期だった。20世紀初頭にはすべての州にロッジがあった。しかし反メーソンの宣伝のせいで1850年ごろまで会員数はあまり伸びなかった。それに加えモーガン事件もあった。モーガンはメーソンだったが、メーソンを激しく糾弾する文書を発表し、ロッジから除名された。ところがある日、彼の経営する印刷所が火事になる。多数の負債を抱え刑務所に入れられたモーガンを、その後誰も見たものはなかった・・・世間は彼はメーソンに誘拐・殺害されたのだと噂した。しかしこの事件がメーソンに与えたダメージにもかかわらず、アメリカにはフランクリンとセオドアの両ルーズヴェルト大統領を始め15人ほどのメーソンの大統領がいる。

 

フリーメーソン』p77

モーガン事件は比較的有名で、Wikipediaで検索するとより詳細に事件の内容を知ることができます。アメリカではその後、決して大きな政党ではありませんでしたが、反メイソン党という政党があったほどです。アメリカ合衆国フリーメイソンの大統領は、ワシントンを筆頭に多数いますが、筆者が何故わざわざ二人のルーズヴェルトを出したのか疑問です。ルーズヴェルトについてはフリーメイソンであると同時に、別の疑惑があります。恐らく筆者はこの点を知っていて敢えてルーズヴェルトの名前を挙げているよう個人的には感じます。


メーソンの象徴体系

メーソンが独自の象徴体系を作り上げるのに使った最初の材料は、大聖堂の建築師たちの道具である。この骨組みの上に、18世紀以降、さまざまな秘教(錬金術・薔薇十字団・カバラなど)やユダヤキリスト教の伝統から借用された象徴が接ぎ木された。こうしてできあがった象徴体系は、次の5種類に分けられる。すなわち、図形による象徴(トレーシング・ボードに描かれているもの)、オブジェによる象徴(衣服・装飾・家具など)、音による象徴(合言葉・歓呼の声・太鼓)、動作による象徴(メーソンであることを示す合図・足取りなど)、儀式による象徴(この行動による象徴の集合が儀礼)である。それらは実際には石工本来の象徴を再構築したものであり、元の文脈から切り離されたこれらの象徴には新しい意味が込められている。

 

フリーメーソン』p101

フリーメーソンが薔薇十字団やユダヤ教カバラなどの影響を受けていることはこれまでも指摘してきましたが、フリーメイソンの特徴は、これはアブラハムの宗教の特徴とさえ言えるかもしれませんが、非常に象徴を重視する体系であり、私個人としてはシンボリズムであると思っています。何が何を象徴するというものの積み重ねは、ハッキリ申し上げますと非科学的な活動であり、私はハッキリと非科学的なカルトであり、悪い意味での精神主義だと思っています。

フリーメイソンには一種の知性主義的な側面もありますが、同時に反知性主義的で、彼らが批判したいはずのカトリック的な教義主義と、大きな違いを生み出せていないと思います。しかし、そういった教義主義がフリーメイソンを主体とした現代の国際諸組織のなかに上手く隠れることができずに、馬脚を露しているというのが実態であり、この教義主義に世界が振り回されていると考えるべきではないかと個人的は思います。彼らの政策の一切は決して科学的なものではなく、独善的で教義主義であり、下らないシンボリズムの体系であるというのが私の彼らに対する批判になります。

関連記事

最後に

最後までお付き合いいただきありがとうございました。もし記事を読んで面白かったなと思った方はスキをクリックしていただけますと励みになります。

今度も引き続き読んでみたいなと感じましたらフォローも是非お願いします。何かご感想・ご要望などありましたら気軽にコメントお願いいたします。

Twitterの方も興味がありましたら覗いてみてください。

今回はここまでになります。それではまたのご訪問をお待ちしております。