内務人民委員部NKVD②ヤゴーダ、エジョフ

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前回、ソ連時代のロシアの秘密警察創設期の話をまとめました。今回はおよそ100万人が犠牲となったソ連時代に行われた大粛清時代についてまとめたいと思います。

 

 

ゲンリフ・ヤゴーダ

内務人民委員部NKVDの前身であった合同国家政治保安部OGPU長官ジェルジンスキー、メンジンスキーの不可解な死の後を受けて長官となったのはユダヤ人のゲンリフ・ヤゴーダでした。ヤゴーダは、義理の母が中央委員会議長のヤーコフ・スヴェルドルフの妹で、ボルシェヴィキ政権の中枢との繋がりのある人物でした。

ルイビンスクで生まれたヤゴーダは、家族と共にニジニ・ノヴゴロドに移住し、16歳か17歳の時にボルシェビキに加わりました。1917年の十月革命の後にチェーカーに加わり、フェリックス・ジェルジンスキーの第二の副官となりました。ジェルジンスキーの死後、OGPUの長官だったメンジンスキーが深刻な病気だったために、実質的にこの頃から秘密警察はゲンリフ・ヤゴーダが主導していました。

1926年にヤゴーダはOGPU傘下の組織である毒物研究所を設立しました。後にこの研究所は1938年からグリゴリー・マイラノフスキーが所長となり、ラヴレンチー・べリアの監督の元、マスタードガス、リシン、ジギトキシン、クラーレなどの毒物がソ連時代の強制労働収容所グラグの囚人に対して実験が行われています。

当初、ヤゴーダはニコライ・ブハーリンらに近い立場でした。ブハーリンスターリンと同盟を結び、トロツキーを勢力争いから脱落させることに成功しました。ヤゴーダはスターリントロツキーカーメネフジノヴィエフらとの政争に勝利するとスターリンに接近していきました。

1931年の一時だけイヴァン・アクロフが第一副官となり、主導権をヤゴーダから奪おうという試みがありましたが、OGPUが組織的に妨害し失敗に終わりました。メンジンスキーの死後、1934年に秘密警察は新しく内務人民委員会NKVDへと改変され、スターリンによってヤゴーダが初代長官に任命されました。

ヤゴーダがNKVD長官になった年の12月、ボルシェビキ派のメンバーであり、スターリンの親友であったセルゲイ・キーロフ共産党員のレオニード・ニコラエフにより射殺されるという事件が起きましたが、ヤゴーダはこの事件を担当しました。

更にNKVDはトロツキージノヴィエフカーメネフらが1932年から野党ブロックを結成していることを掴み、アンドレイ・ヴィシンスキーと連携して、1936年に第一回モスクワ裁判を起こします。

第一回モスクワ裁判

トロツキーは1929年に国外追放されており、ジノヴィエフカーメネフに加え、国内トロツキー派の中心人物イヴァン・スミルノフに加え、ドイツ共産党の野党ブロック派など16人が裁判にかけられ、銃殺刑が宣告されると、深夜には刑が執行されました。彼らに連座したとしてレニングラード共産党関係者が5000人銃殺刑に処されています。

更に、ヴィシンスキーはトムスキー、ルイコフ、ブハーリンらも共犯であるとして調査をしていることを明らかにしました。NKVDに睨まれたトムスキーは後に拳銃で自殺しました。

しかし、一方でモスクワ裁判が行われたこの年に、NKVDによる取り調べや拷問のやり方に不満を持ったスターリンはヤゴーダを解任し、ニコライ・エジョフを長官に任命しました。

ヤゴーダは翌年1937年にエジョフによって逮捕され、1938年の第三回モスクワ裁判で処刑されました。

エジョフ

ヤゴーダの後任となったニコライ・エジョフは今日、「毒入りの小人」、「血塗られた小人」と呼ばれています。彼のサディスティックな性格と、身長が151センチと小柄であったことを表現したものです。

サンクトペテルブルクで生まれたエジョフは、音楽家や売春宿を営んでいた農民の家で生まれたと言われています。ロシア語以外にもポーランド語やリトアニア語、イディッシュ語も知っていたと言われていますが、一方ではリトアニア語は話せず、イディッシュ語もごく僅かの単語しか知らなかったともされます。妻がユダヤ人であり、後の尋問でエジョフ自身もユダヤ人ではないかと疑われています。

エジョフは1936年から1938年までの間、NKVD長官を務めましたが、エジョフ体制の下でおよそ70万近い人間が死刑判決を受け殺され、ソヴィエトは大粛清最盛期を迎えました。現在残っているエジョフの写真や映像などから、彼がフリーメイソンであったことが見て取れます。

エジョフ体制でNKVDの指導者の4割を占めていたユダヤ人の数が2割まで減少したと言われています。NKVDに限らずエジョフ体制の下で開かれた第2回モスクワ裁判と第3回モスクワ裁判で被告となった多くのオールドボルシェヴィキの指導者たちが実際にユダヤ人でした。

第二回モスクワ裁判

1937年に行われた第二回モスクワ裁判では、レーニンの右腕となって活躍し、ドイツやポーランドなどで共産主義運動を行っていたユダヤ人カール・ラデック、ソ連中央銀行の理事長だったゲオルギー・ピャタコフ、二月革命後にレーニンジノヴィエフらと共に封印列車でロシアに戻り、後に中央委員会のメンバーとなったユダヤ人ソコリニコフなど17人が裁かれ、ピャコタフらが処刑されました。死刑を免れたラデックとソコリニコフは後に刑務所内で囚人によって殺害されています。

第三回モスクワ裁判

翌1938年に行われた第三回モスクワ裁判では、第一回モスクワ裁判の頃から名前が上がっていた人民委員会義議長を務めたアレクセイ・ルイコフ、コミンテルン執行委員会議長を務めたユダヤブハーリン、中央委員会書記局筆頭書記を務めたユダヤ系のニコライ・クレスチンスキー、そしてNKVDの前長官であるヤゴーダら21人が裁かれて18人が処刑されました。ヤゴーダが処刑されたのち、彼の最も近いNKVDのメンバーの18人も処刑されました。

大粛清の結果、妻さえも粛清したエジョフは、政権の要職にある人間が多数処刑し、結果として国家が組織として不全に陥ったため、スターリンヴャチェスラフ・モロトフらに批判され、最終的に自ら長官の座から退きました。後任は既にNKVDで実質的な権力を手中に収めていたラヴレンチー・ベリヤでした。

翌年の3月、エジョフは全ての官職を解任され、翌月に、後にスターリンの死後にソヴィエトの暫定的な最高指導者となったゲオルギー・マレンコフとNKVD長官のベリヤの計画によって逮捕されました。2年後の1940年に死刑判決が下り、判決の翌日に処刑されました。エジョフは処刑場に連れていかれている間、インターナショナルを歌っていたと言われています。