アメリカの革命家たち――シオニストとマルキスト

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この記事の内容は、様々な資料をもとに書かれています。

内容の中には一部ないしは全体を通して、資料に基づく偏見や誤りがある可能性があります。また、筆者自身による偏見や誤りがある可能性も当然否定できません。

できる限り公平かつ事実に基づいて記事を書きたいと考えていますが、この点を踏まえていただけましたら幸いです。

今回のテーマはロシア革命期のアメリカの左翼革命家です。この記事は2021年03月08日(月)に書いたものの転載です。

 

 

はじめに

ここではロシア革命期前後のアメリカの左翼活動家やシオニストの活動についてまとめます。アメリカのニューヨークを中心にロシア革命の支援と社会主義運動が活発に行われました。その中心にはユダヤ人移民や金融資本家たちが積極的にかかわっていました。ここでは当時のアメリカでの彼らの活動についての概要を説明します。

アメリカのシオニストと人民評議会

ジュダー・マグネスは、1877年にサンフランシスコに生まれました。1900年にラビに任命されたマグネスは、ドイツに留学し、そこで熱心なシオニストとなりました。1906年にはニューヨークでアメリユダヤ人委員会の設立を支援しました。

当時のニューヨークは100万人近いユダヤ人が住んでおり、そのユダヤ人の多さとユダヤ人の影響力の大きさのために一部ではジューヨークと形容されたほどでした。彼はバル・ミツワーの儀式を復活させるなどの活動を勢力的にこなしました。

マグネスの活動には銀行家で友人でもあるジェイコブ・シフ、フェリックス・ウォーバーグ、義理の兄弟でもあるルイス・マーシャルなどが資金を寄付しました。

第一次世界大戦終結後には、イスラエル建国および東欧のユダヤ人居住区のための資金集めなどに奔走しました。ここでマグネスはユダヤ人共同配給委員会を創設し、500万ドルもの寄付を集めたと言われています。

1917年にロシアで二月革命が起こると、5月にマグネスらによって民主主義と平和規約のためのアメリカ人民評議会が設立されました。評議会にはアメリカ社会党のモリス・ヒルキットやノーマン・トーマス、ロジャー・ボールドウィンといった平和活動家が参加しました。

アメリカ人民評議会は、ロシアのボルシェヴィキ革命家たちを支持する社会主義者と穏健な平和主義者で構成されていました。

マグネスは良心的兵役拒否運動を主導し、この運動で2000人以上が徴兵法・スパイ法で起訴されましたが、一方で暴力革命であるロシア革命を熱心に支援し続けたわけです。

アメリカの社会主義共産主義

アメリカ人民評議会にも参加していたアメリカ社会党ですが、1901年に社会労働党社会民主党が合併することで成立した政党でした。最初期の指導者はユージン・V・デブスで、ビクター・バーガーとマイヤー・ロンドンという二人のユダヤ系の下院議員を輩出しています。アメリカ社会党連邦議会に議員を送ったのはこの二人だけです。

マイヤー・ロンドンはバルフォア宣言を支持することを拒否し、強制併合以外の方法でユダヤ人国家の成立を目指しましたが、ジェイコブ・シフやルイス・マーシャルなどの国際金融資本家勢力の反対に遭い、裏切り者の烙印を押されました。

また地方選ではニューヨーク市長選に立候補したユダヤ系のマルクス主義者モリス・ヒルキットが22パーセントを獲得したことで、アメリカ社会党の顔となりました。ヒルキットはデブスの後を受けてアメリカ社会党の中心で活躍し、また『マルクスからレーニンへ』などの多くの社会主義の理論と実践についての著作を残しています。

しかし、ニューヨークの社会党は1919年から始まった第一次赤狩りの対象となり、5人の社会党議員がニューヨーク議会から追放されています。ヒルキットが5人の主任弁護士となりましたが、最終的に5人の追放が決定されました。

アメリカでは1919年に社会党左派が離党し、共産党と共産労働党に分裂した後、1921年共産党として合同しました。この合同はロシアのコミンテルンからの指令によるものでした。当時の共産党アメリカ国籍のない外国人と東欧出身のユダヤ人がほとんどでした。

初期の共産党員にはユダヤ人であったアレクサンダー・ビッテルマンとジェイ・ラブストーン、ほかにはチャールズ・ルーセンバーグ、ルイス・フライナなどがいます。

ビッテルマンはロシア時代にユダヤ人労働者総同盟のメンバーでした。また、ラブストーンはラビ家に生まれた人物で、後にCIAと緊密な関係を築き上げ、アメリカ労働者総同盟・産業別組合会議の国際問題部局長にまでなっています。

ニューヨーク市を拠点としていたアメリ共産党は1980年代までイディッシュ語で書かれたモルゲンフライハイトと呼ばれる機関紙を発行していました。

モルゲンフライハイト紙で長年編集長を務めたユダヤ人のポール・ノヴィックはパレスチナ分割を批判していた人物であり、シオニストでした。

ニューヨークと第一次赤色恐怖

アメリカでは1919年に労働者階級によるストライキが過激なものになっていきました。各地で過激派による爆破事件が勃発します。エドガー・フーバー率いるGIDは過激派によるクーデターの情報を掴み、1919年11月と1920年1月に過激派の拠点で一斉検挙がなされました。フーバーは1920年メーデーにクーデターが遂行されるというもの情報を掴みました。

 ウィルソン政権の司法長官ミシェル・パーマーの支援の元で、フーバーはクーデターへの備えとして、地方の警察や民兵が動員しました。ニューヨーク州には1万人を超える警察が動員されました。

しかし、メーデーの日にクーデターは決行されず、各紙新聞社はパーマーを批判しました。またユダヤ人の弁護士でのちに最高裁判事となったフェリックス・フランクファーターら著名な弁護士が司法長官のパーマーを批判しています。

しかし、一連の過激派と司法省・警察との衝突により、共産党勢力は縮小しました。スターリン主義のウィリアム・フォスターの元で共産党の再建が試みられ、トロツキストのジェームズ・キャノンやマックス・シャハトマンらが党を追放されます。

ジェームズ・キャノンやマックス・シャハトマンは1938年の第四インターナショナル結成のメンバーとなりました。

ロシア革命前夜の1916年9月にトロツキーはフランス警察に護衛されてスペイン国境から追放されました。直ぐにスペインの警察に逮捕されましたが、その後、蒸気船に乗り、大西洋を横断しました。トロツキーは1917年1月13日にニューヨークに到着しました。

トロツキーはニューヨークで革命ジャーナリストをしていましたが、ニューヨークでは運転手付きのリムジンに乗り、貧しい革命家には見合わない生活をしていたとされます。トロツキーがニューヨークを離れペトログラードへ向かう際には1万ドルの資金を得ていたとされます。

どのように資金を得ていたのかは推測の域を出ませんが、一説ではアメリ共産党リンカーン・ステファンズがトロツキーウッドロー・ウィルソン大統領、アラブ系の実業家チャールズ・クレーンとのパイプ役を演じていたとされ、チャールズ・クレーンがトロツキーに資金援助していたとしています。

また、ユダヤ人記者でユダヤ人のための日刊紙を創刊したハーマン・ベルンシュタインはトロツキーにインタビューや手紙のやり取りを行っていました。ベルンシュタインはロシア革命に際してロシアへの入国を試みて拒否された経験を持ち、ニューヨークでロシア革命についての記事を数多く執筆しています。

ロシア革命を取り巻くユダヤ人活動家たち

1863年にスイスの実業家アンリ・デュナンによって創立された非営利組織である赤十字社は人道・公平・中立・独立・奉仕・単一・世界性を掲げている団体です。赤十字国際委員会は、ロシア革命があった1917年にノーベル平和賞を受賞しています。

アメリ赤十字社ロシア遠征隊レイモンド・ロビンズは、赤十字社の公平・中立という理念とは関係なく、ロシア革命を通じて、ロシアの立憲民主党ではなく社会革命党を始めとする革命家たちを支援したとされます。

当時のアメリカの赤十字社はメーベル・ボードマン女史が積極的に活動していました。この赤十字社に最も多くの資金を拠出したのがジョン・モルガンで、このため赤十字戦争評議会ではモルガン商会のヘンリー・デイヴィッドソンが会長を務めています。デイヴィッドソンは先にも触れましたが、連邦準備制度創設のためのオルドリッチ主宰の会合に参加していた人物です。

この後、赤十字オーストリアハンガリーでの共産主義革命でも革命側として目撃されており、またイギリスでもボルシェヴィキを名乗る赤十字の制服を着たアメリカ人が報告されています。

現在の赤十字社について言及するつもりはありませんが、当時のアメリカの赤十字社アメリカの銀行家たちの思惑に沿って任務に当たっていた部分がありました。

スウェーデンユダヤ人銀行家オロフ・アッシュベリは1912年にストックホルムに新銀行を設立し、西側で資金を獲得し、ボルシェヴィキ政府に支援金を送りました。

アッシュベリの新銀行とボルシェヴィキ政権とのパイプ役は、ユダヤ人のヤーコフ・ガネツキーやアレクサンダー・パルヴスが演じています。

ソヴィエトで最初の国際銀行が設立されたのは1922年のことです。旧ロシアのプライベートバンクに加えて、ドイツ、スウェーデンアメリカ、イギリスの銀行家たちによって設立されました。取締役会を主導したのがストックホルム新銀行のアッシュベリでした。

アッシュベリは後にスペイン内戦でも人民戦線の共産主義者のために資金を調達して支援しています。

広く知られるドイツのヒトラーばかりではなく、アメリカでもユダヤ人の陰謀に対する告発はありました。

1920年ヘンリー・フォードは『国際ユダヤ人』を出版しました。日本では1927年に包荒子により翻訳されています。

1919年から1927年にかけてフォードはディアボーン・インディペンデント紙を発行します。ここでフォードは、全ての戦争の背後にいるのは国際金融資本家勢力のユダヤ人であるという告発を行いました。主な執筆者は、編集長のウィリアム・キャメロンとされています。

『国際ユダヤ人』の中でいわゆる偽書とされる「シオン賢者の議定書」について触れており、このことにも多くのユダヤ人が反発しました。記者のヘルマン・ベルンシュタインは、ユダヤ人弁護士のサミュエル・ウンターマイヤーと共に1923年にフォードを名誉毀損で訴えました。

これに加えて、同じくユダヤ人弁護士であるルイス・マーシャルやアーロン・サピロも名誉毀損訴訟を起こしました。また、ウンターマイヤーの働きにより最高裁判事となったとされるルイス・ブランダイスもまたこの著作を非難する声明を出しています。

まとめ

20世紀初頭のアメリカのユダヤ人活動家と金融資本家勢力の活動についてまとめました。この記事と連邦準備銀行の記事を見比べてみると、更に繋がってくる部分があると思います。ここに記載されているのはごく一部であり、ユダヤ人活動家に焦点を当てているため少なくない偏りはあるかもしれませんが、できるだけ公正公平にまとめたつもりです。ここに書かれている事柄から更に調べていくとより詳細が見えてくると思います。

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さいごの一言

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