【ロンドンの錬金術師】ヘイーム・サミュエル・ヤコブ・ファルク

見出し画像

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回はヘイーム・サミュエル・ヤコブ・ファルクの英語版Wikipediaの翻訳をします。翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれませんが、大目に見てください。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

 

 

序文

フランス革命前夜にロンドンで活動していたユダヤ人ラビ、ファルクについてみていきましょう。カリオストロとの関連で、当時のロンドンのユダヤ人がどういった位置づけだったのか興味深いものがあります。

ヘイーム・サミュエル・ヤコブ・ファルク

Hayyim Samuel Jacob Falk - Wikipedia

ヘイーム・サミュエル・ヤコブ・ファルク(1708年 - 1782年4月17日)は、ロンドンのバール・シェム、ファルコン博士とも呼ばれ、ラビ、バール・シェム、錬金術師である。

略歴

ファルクはバイエルンフュルトかポドリアのピドハイツのどちらかで生まれた。魔術の罪でヴェストファーレン州当局から火あぶりにされる寸前で、ドイツのアレクサンダー・レオポルト・アントン・フォンランツァウ伯爵に密かに保護され、ホルツミンデンで過ごした。1736年の滞在中、ファルクはランツァウの城で、貴族やアレクサンダーの息子ゲオルク・ルートヴィヒ・アルブレヒト・フォン・ランツァウ伯に見守られながら、印象深いカバルの演技を披露している。この若い伯爵は、多くの研究者が標準的な原典として参照する有名な『ランツォウ伯爵の思い出』の中で、これらの神秘的な実演のすべてを徹底的かつ詳細に説明している。1736年以降のある時期、ファルクはロンドンに到着した。彼は死ぬまでイギリス、ロンドンのプレスコット通り35番地とロンドンのウェルクロース・スクエアに住んだ。彼はエマヌエル・スヴェーデンボリの隣人であり、彼に大きな影響を与えたという証拠もある。

ラビのヤコブ・エムデンは、ジョナサン・アイベシュッツとのつながりでサバタイ・ツェヴィの支持者として知られるポドハイスのモーゼス・デイヴィッドを自宅に招き、彼がサバタイ派であることを非難した。

1782年4月17日に亡くなり、ロンドンのマイル・エンドにあるアルダーニー・ロード墓地に埋葬された。ファルクは遺言で、ロンドンのグレート・シナゴーグに毎年100ポンドを寄付することと、トーラーの巻物(訳注:キリスト教でいう旧約聖書)をいくつか遺贈した。

伝承

ファルクの不思議な力については、さまざまな話がある。ある話によると、ファルクは馬車でエッピングの森を密かに訪れ、そこに宝物を埋めたと言われている。ある時、ホワイトチャペル通りで馬車の車輪が外れたが、森までずっとついてきたという。石炭が足りなくなると、3枚のシャツと雄羊の角で魔法を使ったという。また、ロウソクの火を奇跡的に消さないようにしたり、物を別の場所に運んだりすることもできたという。

また、大シナゴーグの扉の柱にヘブライ語で何か書いて火災から救ったという話もある。

日記

ファルクは、夢の記録や天使のカバラ的な名前を記した日記をつけていた。この日記は、ロンドンのユナイテッド・シナゴーグの図書館で見ることができる。2002年、ミハエル・オロンがこの日記とフォークの伝記を出版した。日記はヘブライ語で書かれており、非常に不可解な内容である。この日記は、ファルクの助手であったカリシュのツヴィー・ヒルシュの日記と一緒に出版された。

感想

現時点でサバタイ派の実像がつかめないでいますが、日本語版のサバタイ派の項目と比較すると英語版の方がすっきりとした記事になっているため、そちらを今後翻訳したいと思います。正直、サバタイ派についての日本語版の説明は頭に入ってきません。ざっと眺めた感じですと、18世紀に、タルムード重視のラビとサバタイ派でカバラ神秘学を重視するラビとで対立しているようです。

サバタイ派はイスラム教の一派なのか、あるいはユダヤ教の一派なのか、そういった部分も自分のなかでは今のところ漠然としてつかめていません。

関連記事

最後に

最後までお付き合いいただきありがとうございました。もし記事を読んで面白かったなと思った方はスキをクリックしていただけますと励みになります。

今度も引き続き読んでみたいなと感じましたらフォローも是非お願いします。何かご感想・ご要望などありましたら気軽にコメントお願いいたします。

Twitterの方も興味がありましたら覗いてみてください。

今回はここまでになります。それではまたのご訪問をお待ちしております。