エドマンド・バーク『フランス国王弑逆の総裁政府との講和商議についての一下院議員への手紙』より

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今回はエドマンド・バーク『フランス国王弑逆の総裁政府との講和商議についての一下院議員への手紙』からの引用とそれについての個人的な考えをお話ししたいと思います。記事中には私個人の偏見や認識の誤りも含まれていると思います。その点のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

 

 

序文

私たちが学生の頃から教えられてきたことに、すべての人間に授けられた天賦の権利として「自由」と「平等」というものがあります。この「自由」と「平等」の権利が謳われた最初期のフランス革命を巡る知られざる歴史や批判というのは当然存在します。

最も早くフランス革命およびフランスの人権思想を批判したのが保守思想の祖とされるイギリスの政治思想家のエドマンド・バークですが、私たちが一般的に認識する保守というものとは違う、革命当時の出来事を背景とした評論などが実際の彼の政治信条を固めている部分があると思います。

フランス革命とは何だったのか、人権思想とは何なのかを考えるうえで、外せないと思われるのが、ジャコバン主義者とは何者なのか、だれがジャコバン主義者を革命に駆り立てたのか、彼らはどういった正義を思い描き、何を実践したのかを見ていく必要があります。

自由と平等の権利は、人間の猜疑心や虚栄心、残虐さや野蛮さといったものと無関係ではないということを私は改めて指摘しなければならないと思っています。

ほとんどすべての日本人が知らないフランス革命と人権思想の闇について触れているバークの言及について触れていきたいと思います。

引用文

フランスのジャコバン主義者にとって曖昧な性交渉は何の恥辱でもなく、婚姻生活は最も俗悪な同棲と変わるところがない。子供は両親の咽喉笛に切りつけるよう、母親は慈愛心を忘れるように教えられる。彼女らは自分の党派への愛着を証明すべく、自分の胎内から出た者の腸を血塗れの手で搔きむしることさえ躊躇うな、と教えられる。

これらに加えてわれわれは人食いの慣行を挙げてよかろう。現に彼らの各党派はこれの最も厳密な用辞、最も明白な正確さで互いに相手を糾弾している。私はこの食人の慣行なる言葉で、彼らがその凶暴な行状の滋養のために彼らが殺戮した敵の身体の一部を食い血をすすり、さらに犠牲者自身にも無理やり彼らの目の前で殺害された肉親の血を飲ませる慣行を指して言う。私はまた食人慣行の語で彼らが殺害した者の屍体に加える各種の言語道断の卑劣かつ唾棄すべき侮辱をも意味する。

エドマンド・バーク『バーク政治経済論集』p911

注釈にはこうあります。

フランスでは1794年に、公的祝祭の日には血をすするのが望ましい、と意見が行われた。現にダントンは彼の僭越な演説の中で「血をすすると言われることに一体何の不都合があろう。そうだ、われわれは人類の敵の血を飲み干そう」と絶叫したといわれる。(『モニトゥール』93年3月13日付)。ソンブルイユ嬢が九月虐殺の際に自分の父の一命を救おうと敢えてコップ一杯の血を飲んだ、というbuveur de sangの風評は後になって実際に活字となった。

 

エドマンド・バーク『バーク政治経済論集』p1018

1757年生まれのイギリスの風刺画家ジェームズ・ギルレイは、1792年の作品の中で次のような作品を残しています。

参考までに風刺画家ジェームズ・ギルレイを紹介しているサイトの中からこの作品についての記事を紹介します。

バークの予言通り、1792年9月、フランス革命は制御不能の状態に陥っていた。フランス政府内の急進派は、内部からの裏切り者と外部からの侵略者を恐れ、ますます猜疑心と暴力性を強めていた。ブラウンシュヴァイク公カール・フェルディナントが率いる外国軍が、王党派の軍隊と協力してパリの刑務所に収容されている多くの新入者を解放し、パリ奪還に利用するのではないかと考えたフランス国民衛兵は、1792年9月初めに刑務所への攻撃を開始、収容者を連行して、多くの場合は即処刑している。その中には、軽犯罪者や政治犯のほか、フランス民政当局が要求するローマ教皇への忠誠を拒否した司祭も含まれていた。

イギリスのマスコミは、後に「九月大虐殺」と呼ばれる、飢えたパリ市民の共食いを含む残虐行為の報道に戦々恐々としていた。9月7日から10日にかけての『ロンドン・イブニング・メール』紙に掲載された、目撃者の証言と思われるものを紹介しよう。

「今朝の通りには、昨日虐殺された司祭たちの、むちゃくちゃになった体と頭の光景が広がっていた。何人かが我が家の窓を通り過ぎたが、この人食いの宴に従う大勢の人々は、喜びを表すように合唱を歌っている。」

また、9月11日付のセントジェームスクロニクル紙またはブリティッシュ・イブニング・ポスト紙からの記事もある。

「昨日パリを発った紳士は、その不幸な首都で行われた恐ろしい残虐行為についてロンドン新聞に詳述された恐ろしい証言は、誇張であるどころか、真実とはほど遠いものだと断言している。6000人の人々が、ある監獄に座っていた12人の陪審員によって、絶対に殺害されたのです。3台の大きな荷馬車が6時間30分も休むことなく、死体をパリから運び出し、そのために掘った穴に無造作に投げ入れたこと。」

ギルレイは、モラヴィア派の厳格な教育を受けているせいか、人間の本質的な堕落に疑問を持つことはなかった。そして、ただでさえ凄惨なフランスからの報道をもとに、ギルレイは「パリジャンの軽い夕食」「フランスの栄光の頂点」の遠近法のイメージを次々と生み出し、当時も今も、イギリス国民にとって革命的過剰を定義するものとなっている。

『パリジャンの軽い夕食』では、フランス革命家の貧しい一家が、当該貴族一家の死体らしきものを前に食事をする。ギルレイは、いつものように、絹のストッキング、革のパンプス、膝丈のブリーチを履いたテーブルの下の死んだ紳士とは対照的に、革命家たちを文字通りズボンなしで表現して、「サンキュロット」という言葉を弄んでいる。ボネット・ルージュと三色の円形章をつけた中央の革命家は、目の前の金皿に盛られた死人の頭から目玉と耳を食べようとしているところである。傍らの二人の女性は、彼の心臓と腎臓をごちそうになっている。

もう一人のサンキュロット(ベルトに斧を差している)は、この紳士の妻と思われる女性の裸の胸に座っている。彼と同じように喉を切られ、やや繊細な右腕と手(絵から適当に切り取られている)が今にも食べられそうになっている。

部屋の反対側では、数人の革命家の子供が貪欲に内臓の入ったカゴを手で食べており、すぐ上の貴族の子供は将来の食事用に焼かれている。天井から吊るされた棚と出入り口の外には、さらに人肉が用意されているのが見える。

奥の壁には、「自由万歳」と「平等万歳」の文字の間に皮肉にもパリ市長ジェローム・ペション・ド・ヴィルヌーヴが、片手に切断された首、もう片手に肉切りを持った棒人間として描かれている。彼は立憲君主制を支持していたので、人によっては穏健派に見えたかもしれない。しかし、ギルレイは明らかに、虐殺の際のペションの無策と目の前の人肉食のシーンとを直接結びつけて考えているのだ。

最後に、中央の革命家夫婦の間の奥の壁には、首のないルイ16世が軍の警棒を持ち、皮肉にも指揮官としてのポーズで立っている別の絵が描かれている。その下には、中央のサン・キュロットが座っている袋があり、フランス王冠の宝石が入っているようである。『パリジャンの軽い夕食』は1792年9月20日に出版された。フランス君主が斬首されたのは、それから4ヵ月後の1793年1月21日である。しかし、ジルレイはすでにこの出来事を予期していたようだ。そして、このことはかろうじて示唆されているにすぎないが、ギルレイは最終的に、支配者である王家が究極の劣化を被るという、より残酷でディストピアな革命のビジョンを提示しているのだと私は思う。財と命を奪われた彼らは、かつて指揮していた民衆によって文字通り食い尽くされてしまうのである。

ギルレイは、自分がいかに重苦しく、不穏な情景を作り出しているかを理解し、その雰囲気を和らげるために「上記の版画を見たときのエピグラム」を付け加えた可能性もないとはいえない。いずれにせよ、このエピグラムを囲むプレートマークが見えることから、後から付け足されたことは明らかである。

バークの引用文に示されている

犠牲者自身にも無理やり彼らの目の前で殺害された肉親の血を飲ませる慣行

という箇所は、マリー=モリーユ・ド・ソンブルイユの物語を指していると思います。

父親の命を救うために、犠牲者の血の入ったグラスをマリー=モリーユが飲んだというものです。

感想

フランス革命におけるカニバリズムとは、イギリスの報道の誇張だったのか、あるいは、イギリスの報道はカニバリズムを矮小化してしまったのか、真偽のほどは私にはわかりませんが、いずれにせよ、当時のフランスやイギリスではこのような話は広まっていただろうことは疑いの余地はありません。

またフランス革命期のカニバリズムが実際にイギリスの報道通りかもしくは実際はそれ以上だったとしたならば、革命家のカニバリズムはどこから来たのかという問題が生まれることでしょう。

フランス革命の初期の活動家のミラボーやオルレアン公ルイ・フィリップなどは当時から、イルミナティのメンバーだったと言われて言います。

これはジョン・ロビソンの『陰謀の証明』(1797)にも記されており、ジャコバン主義者による食人や血をすするという慣行はそこから来ているのではないかという可能性は十分に考えられるところではないかと思います。それは現在の陰謀論にみられるイルミナティのメンバーと目される人々からもこの種の慣行の噂が聞こえてくるからです。

またバークは、革命初期からイルミナティおよびフリーメイソンの活動について批判的文章を書いています。バーク自身もフリーメイソンだったようですが、大陸のフリーメイソンにこの種の慣行が行われていたのではないかと推測されます。この点については今後もさらなる吟味が必要とは思います。

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最後に

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