ジャック・アタリの宗教観と科学

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今回はジャック・アタリについての個人的な考えをお話ししたいと思います。記事中には私個人の偏見や認識の誤りも含まれていると思います。その点のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

 

 

ジャック・アタリの世界観

Jacques Attali - Wikipedia

日本ではしばしば「ヨーロッパ最大の知性」などという触れ込みで紹介されているジャック・アタリですが、確かに部分的に優れた知識はあるものと思われますが、とはいえ宗教と科学の折り合いが全くつけられていない点は指摘せざるをえない。ジャック・アタリの本音がどこにあるのか知らないが、ジャック・アタリの根幹部分には次のような信念があります。

ヘブライ人[ユダヤ人]は、おそらく史上初めて、自らが想像した唯一神以外に世界に神はいないと考えた。そして人間は、ただ一つの種しか存在しないと考えた。ヘブライ人は、いわゆる「約束の地」以外には征服の意志を持たず、他者への統治も欲してならないという、ただ一つの法をつくり出した。ヘブライ人からすれば、「ノアの七つの戒め」は、すべての人間が遵守すべき規則である。さもなくば、全人類を救い、全人類を統治してくれる救世主は降臨しないのだから。これが地球規模の法の支配と世界秩序について、史上初めて与えられた定義である。

ジャック・アタリユダヤ教における「ノアの七つの戒め」を遵守すること、全人類を救う救世主の降臨を、全人類の重要な要件であると見なしています。

ノアの七つの戒めというのは、

① 偶像崇拝の禁止。
② 殺人の禁止。
③ 盗難の禁止。
④ 性的不品行の禁止。
⑤ 冒涜の禁止。
⑥ まだ生きている動物の中から取られる肉を食べることの禁止。
⑦ 法的手段を提供するために裁判所を維持するための要件。

という次の七つの戒めを指していいます。しかし、ノアの七つの戒めには、何故そうするべきなのかという解釈にはあまり重きを置かれていません。これらの戒律は疑うことができず、反証することができないが故に、現代の科学哲学における解釈では、科学的命題とは言えないということができます。

もちろん七つの戒めは科学ではなく戒律であり、宗教ですので、科学的であることを求めるのは無理な話ですが、しかしながら、七つの戒めという権威の方法を私はプラグマティストとしては批判的に論じざるをえません。

ジャック・アタリユダヤ教権威主義をもって、世界の統治機構を構築しようと試みていますが、これは批判されなければなりません。もちろんジャック・アタリに限らず、現在、グローバル勢力と呼ばれる多くの人々の中には非ユダヤ教徒も沢山見受けられるわけですが、彼らの議論も基本的にはジャック・アタリに見られる権威主義によって、世界の統治機構を建設しようとしていると言えるわけです。

権威主義と科学

ジャック・アタリの科学的方法論の不誠実さは他にもあります。ジャック・アタリユダヤ教的な権威主義によりながら、一方で科学的方法論を唐突に持ち出してきます。地球環境の破壊という文脈で彼は生物の大量絶滅について言及しています。

気候が影響して、地球上の生命の大部分が絶滅するようなことなどあり得ないと思われるかもしれない。しかし、これまで5億5000万年のあいだに、地球環境の激変によって生物の種の半分以上が絶滅したことが、5度もあるのだ。しかしそのときは、生物が非常に多様であったことから、一部の生物が変化に耐え、生命全体が再出発することができた。しかし今日の状況は、それが当てはまらない可能性がある。

とりわけ規模の大きかった五大大量絶滅事件の最初は、今から4億5000万年から4億4000万年前のオルドビス紀末で珊瑚、筆石、腕足類が絶滅した。二番目は、デボン紀後期、3億7000万年前で、このとき海洋動物の19%の科、35~50%の属が絶滅したと言われる。これらの絶滅を引き起こした環境変動の原因として、氷河の発達や海水準低下などが挙げられている。

ジャック・アタリ権威主義的なユダヤ教的な前提に立ちながら、一方で科学的方法に基づいた地球史的な知識をここで提示していますが、彼がこのような議論を持ち出すのは、主に彼の終末論を強化するためのものと言えるのではないでしょうか。

そもそも地球の歴史などの議論を持ち出すのであれば、すぐさまその科学的な知見の批判対象はユダヤ教を含めたアブラハムの宗教の権威主義に向けられてしかるべきです。多くの科学者はユダヤ教の神や悪魔について、彼らの権威主義的なアプローチとは別の角度から批判的な解釈を提示しています。しかし権威主義者の側では科学は、その権威を補強するための道具でしかありません。不都合な批判には権威によってその批判を排除するだけなのです。

現在、世界の統治機構を建設しようとしている人々の多くが救世主が降臨するという前提によって、統治機構を建設しているかのようにも見えます。温暖化の議論やエネルギーの議論なども究極的には、アブラハムの宗教に見られる権威主義的な視点を一部前提として議論しているとさえいえるでしょう。

このような権威主義故に、救世主の降臨を信仰するが故に、彼らの諸政策の多くが、人類の破滅的な運命と救世主の出現というシナリオの下に作られているように感じるのかもしれません。

歴史と科学の犠牲のもとに

かつてスイスの歴史学者ヤーコプ・ブルクハルトがその著作の中で歴史は政治によって利用される運命にあることを指摘しました。歴史にとって真の友とは数学であると言っていることに私自身少々驚きましたが、いずれにせよ、歴史を救済する真の友とは政治や宗教や経済などではなく、数学や科学といった反権威主義的な理論に基づく学問であることが解ります。

しかし、それは同時に、数学や科学もまたブルクハルトの言うように歴史がそうであったように、政治や宗教や経済の学問における権威主義の悲しき生贄にされているとさえいえるのかもしれません。

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最後に

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