【知ってはいけないポーランドの秘密警察】ヨゼフ・ルザインスキー

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今回はヨゼフ・ルザインスキーの英語版Wikipediaの翻訳をします。翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれませんが、大目に見てください。

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ヨゼフ・ルザインスキー

Józef Różański - Wikipedia

ヨゼフ・ルザインスキー(生誕名はヨゼフ・ゴールドバーグ:1907年7月13日- 1981年8月21日)は、ソヴィエトのNKVD秘密警察の将校であり、後に共産主義の秘密警察であるポーランド公安省(UB)の大佐であった。ワルシャワポーランドユダヤ人の家庭に生まれたルザインスキーは、第二次世界大戦前にポーランド共産党で活発に活動した。ソ連ポーランド侵攻後にNKVDに入隊し、戦後はルザインスキーの名でポーランド共産党保安機関のエージェントとして活動した。

ルザインスキーは、反共主義者や「呪われた兵士」など、ポーランド人民共和国に反対する何十人もの人々の拷問や殺害に自ら関わった。彼はワルシャワで最も残忍な秘密警察官の一人として悪名を馳せた。ルザインスキーは、最も有名な「呪われた兵士」の一人であり、アウシュビッツ収容所に進んで行った唯一の人物であるヴィトルト・ピレツキに自ら拷問を加えた。ピレツキは機密情報を明かさず、1948年5月25日にモコトゥフ刑務所で「虐殺者」シミエタンスキ軍曹によって処刑された。

アウシュヴィッツ潜入記』を記したヴィトルト・ピレツキは、ポーランドレジスタンス運動のリーダー。1947年に共産主義政権下でポーランド公安省に逮捕、ルザインスキー大佐らによって残忍な尋問が行われた。1948年にモコトフ刑務所で屠殺人と言われたピオトル・シミェタンスキーに処刑された。

ヨゼフ・ルザインスキーは、ポーランドスターリン時代の終わりである1953年に逮捕され、ポーランド統一労働者党員を含む無実の囚人を拷問した罪で起訴された。1955年12月23日に懲役5年の判決が下された。1956年7月、最初の捜査で不適切な点が見つかったため、最高裁判所は彼の事件を再審した。1957年11月11日、共同被告のアナトル・フェジンとともに起訴され、下級審で再び懲役15年の判決を受けた。1964年に7年の刑期を終えて釈放された。ルザインスキーは1981年8月21日に癌で亡くなり、ワルシャワユダヤ人墓地に埋葬された。

ルザインスキはイエジー・ボレイサの兄弟だった。

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