【知ってはいけない通信社の重要人物】シャルル=ルイ・アヴァス②

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今回はシャルル・ルイ・アヴァスのフランス語版Wikipediaの翻訳をします。翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれませんが、大目に見てください。

翻訳アプリDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

 

 

シャルル=ルイ・アヴァス

Charles-Louis Havas — Wikipédia

現在のAFP通信社とトムソンロイターの起源に迫る第二弾です。

アヴァス――翻訳家・ジャーナリスト

オテル・デ・ポストの向かいに翻訳者の事務所を開設

1825年に起きた株式市場の危機で打撃を受けたアヴァスは、1832年に外国新聞翻訳事務所(後にニュース・ビューロとなる)を設立した。パリのジャン=ジャック=ルソー通り4番地のホテル・ブリオン、ホテル・デ・ベントのすぐ隣にあったシャルル=ルイ(・アヴァス)は、毎朝、ルーヴル中央郵便局となるホテル・デ・ポストから手紙や新聞を受け取るために、通りを渡るだけでよかった。

1825年に出所した彼は、友人の銀行家ガブリエル=ジュリアン・ウブラールから、ヨーロッパの情報提供者のネットワークを構築するよう依頼された。彼の使命は、戦争、貿易、商品価格、難破船など、ライバルとなる銀行の活動をすべて読み取ることだった。蒸気船は、ミシシッピ川で綿花を運んだ後、海に出ていくという黎明期の航海でした。スペインの植民地帝国は崩壊し、新しい共和国が誕生していた。

シャルル=ルイは、英語とドイツ語のニュースを担当し、スペイン語ポルトガル語は、リスボンで生まれた妻のジャンヌが担当した。ブラジル、ルイジアナ、エジプトなど、政治から株式市場まで、世界のニュースを分析した。毎日、ロンドン証券取引所に通うガブリエル=ジュリアン・オブラールの代理人、ジェームズ・コランズから手紙が届くのだ。ジェームズ・コランズの手紙は、名前の書かれていない別の封筒に隠されているため、精査を逃れることができるようになっている。また、4人の情報提供者の名前が4つの数字の下に隠されており、テキストの一部が暗号化されていた。1831年に妹に宛てた手紙で告白したように、アヴァスはまだ借金を抱えていた。

パリ証券取引所はまだ拡大の途上にあり、1830年には44銘柄しか上場していなかった。6年後の1836年12月には223個、つまり5倍になっている。報道の自由が確立されたことで、メディア部門は34銘柄と最も多くの銘柄がランクインしました。1837年8月、新聞ラ・ブルスには、すでに38の新聞社を含む260のフランス企業が掲載されており、その中には経済関係の出版物も多く含まれていた。1833年銀行法制定後、ロンドン証券取引所でも同じような盛り上がりを見せたが、経済に欠かせない別の分野では、その後の3年間で30件、翌年の1836年には59件のイギリスの銀行の上場があった。1837年のパニックは、このような投機ブームを後押しした。

1832年に通信社がニュース・ビューロに引き継がれたこと

また、シャルル・ルイ・アヴァスは、彼のパトロンの一人であるジョセフ・フーシェが1815年に創刊した日刊紙「ル・コンスティチュショネル」(憲法、立憲)に記事を書いていた。他にも2つの新聞の記事を翻訳した。1830年7月26日、栄光の三日間(フランス七月革命)前夜の44人のジャーナリストの抗議行動の際、彼はヴァロワ通りの日刊紙「ル・コンスティチュショネル」のオフィスにいた。そこでは怒りが爆発し、パレ・ロワイヤル広場での暴動にまで発展していた。

また、1830年には、ガブリエル=ジュリアン・ウブラールがロンドン証券取引所で、フランス国債の下落に投機し、ロスチャイルド家が上昇に投機するという金融戦を展開した。ガブリエル・ジュリアン・ウブラールは、パリのシャルル・ルイ・アヴァスから情報を得て、フランス国債の価格を80円から48円に下げて、賭けに勝った。74まで再上昇するのに10年はかかる。

ドイツ語を話すアヴァスは、1811年にドイツからの政治亡命者によって設立されたボーンシュテイン局を引き継いで、1831年末に再出発したガルニエ通信にも協力していた。この出版物には、ライン川沿いに数百人の貴重な読者がいた。彼が買い戻したのは、ニュース・ビューロを作ったのと同じ1832年のことだった。競合する他の出版物であるグーヴ・ド・ヌンク通信とパリ通信を買収したことで、中心となる総合的な情報収集ネットワークを構築することができ、ニュース放送に信頼性を与えることができたのである。世界の報道機関というコンセプトが生まれた。

ヨーロッパを旅行して通信員を集め、1835年10月22日に設立されたジェネラル・エージェンシー通信:政治家の手紙の一員となり、1838年以降、オランダ、ベルギー、ドイツ、イギリス、そして各省の合法主義的な意見を持ついくつかの機関に派遣された。この新しい活動は、J・デレールを責任者とし、翻訳局を完成させた。新生デレール・アヴァス社は、1844年には534本の鉄塔でフランス国内の5000kmをカバーしていたシャップ電信を使って通信員と連絡を取っていたが、すでに郵便による通信の高速化の特権を得ていた。

1838年内務省の決定的な支持を得て

1838年4月15日、デレール=アヴァス社は決定的な行動に出た。アヴァス社の歴史上のライバル、ジャック・ブレッソンが創刊した地方向けの重要な公式出版物、各省大臣誌通信、別名ルジョリヴェ通信の市場を自分たちの利益のために再開するよう、内務大臣のカミーユ・ド・モンタリヴェを説得したのである。1838年からハヴァスのために働くプレスの大臣顧問であるレオン・ヴィダルによって書かれた。ルジョリヴェ通信は、省庁の閣僚シートのための特別通信、あるいはラボ通信とも呼ばれていた。

弁護士であり、ヴォルニーの民衆通信の編集者でもあったラボは、メール通り8番地にある政治・商業・文学通信局の所長であるデグラヴィエと、113の町で発行されている335の新聞の統計を掲載した出版物を作っていた。週に2回送られてくる彼の手紙には、「外国の新聞の些細な翻訳と、会議の一部を切り取ったもの」が書かれていたが、1830年にジャック・ブレッソンが設立した通信オフィスに買収されていた。これは、内務省の 公共心局が直接起草された。1833年には、約60の部門別シート(うち10は日刊)を顧客に持ち、1830年にジャック・ブレッソンが作成し、1835年からルペルティエとブルゴワンのコンビが発行していた通信オフィスとの競争にさらされていた。

アヴァスとデレールは、1840年に民間政治通信を発表し、これに取って代わりました。レオン・ヴィダル(著者)は、彼らの支配下で、同じ役割を果たし続けた。ジャック・ブレッソンはその後、1855年から証券取引所の新聞、鉄道ガジェットの運営に携わり、成功を収めた。

1840年頃、アヴァスとでデレールは4つのサービスを提供していた。1つは、県知事や小県知事向けの政治通信で、もう1つは政府省庁の報道機関向けの民間政治通信、そしてもう1つは、前日と夜のニュースをまとめた小ユニバーサル速報(政府のメンバー向け)である。銀行員やビジネスマンにとって、木の葉は、新聞の抜粋や株式市場の情報、債券の相場情報などをまとめたものでした。すぐに70枚ほどの「部門別シート」を顧客に持つようになった。その後、デレールは2回の補助金を受け取った。1回の補助金は1,100フランから1700フランで、四半期ごとに支払われる。1840年から1841年の間に、デレール=アヴァス機関は合計で20万フランを国から受け取ったと言われている。読者のいない出版物を中心に、クライアントの広告予算の最大50%を占めていた。銀行家のジャック・ラフィットの支援を受けたアヴァスは、1850年に制定された法律よりも5年早く、1845年には非常に厳しい条件の下で電気電信を使用する権利を得た。

バルザックはアヴァスの独占を非難、ジュリアス・ロイターはそれをコピーすることを夢見る

特に、ルイ・フィリップ1世の7月王政下では報道の自由が極めて制限されているため、アヴァスが辛抱強く築いてきたフランスの日刊紙への国際報道記事の配信の独占は、多くのジャーナリストの不満の種となった。

1840年8月25日、オノレ・ド・バルザックがこの言葉を発した。

世間は新聞がいくつもあると思っているかもしれませんが、結局、新聞は一つしかありません・・・ムッシュ・ハヴァスです。

この新聞は、1811年9月17日にボナパルトが発行を許可した4つのパリの新聞のうちの1つで、「ル・モニトゥール」「ジャーナル・ド・パリ」「ジャーナル・ド・ランパイア」と並んで、いずれも国有の新聞であったことで有名である。さらにアヴァスは、「大陸封鎖中にナポレオンから与えられたライセンスの会社の共同経営者であった」とオノレ・ド・バルザックは述べている。

彼は「省庁の推薦人」と呼ぶアヴァス社は、「新聞社からの4000フラン」に対して「省庁から毎月6000フラン」を受け取っている、と糾弾する。その結果、「新聞社は知らず知らずのうちに、首相が掲載させたものしか持っていない」と主張している。

バルザックは、より一般的に、彼によれば「国家の第4の権力」となった当時の報道機関を批判している。「どの料理人が料理のスパイスを担当しているかは後で説明するが、世界で最も精神的に優れていると言われている人々が、最も粗雑さで騙されていることがわかるだろう 」と激怒した。1842年には、『パリ・プレス・モノグラフ』で、こうした新聞批判を繰り返した。

アヴァス社は、ヨーロッパの様々な都市で働く様々なジャーナリストのおかげで、特に経済分野のニュースを、加工されていない生の素材として提供しているだけだと弁明している。早くも1845年には、経済的に目覚めたロシアの首都サンクトペテルブルクに特派員を置いていた。1848年のドイツ三月革命後の弾圧により、ベルンハルト・ヴォルフ、ポール・ジュリアス・ロイター、ジギスムント・イングランダー(1823-1902)という新世代の最高のジャーナリスト3人を採用することができた。1人目はその後すぐにベルリンに戻り、ウォルフ電信局を設立した。残りの2人は、1848年以前にベルリンの同じ政治新聞社で一緒に働いていたこともあり、ロイター通信を設立した。ポール・ジュリアス・ロイターとベルンハルト・ヴォルフはベルリンで知り合い、一緒にパリに移住した。

アヴァス――通信事業者

1840年、投機家にとっての伝書鳩の時代

1840年以降、海外の新聞や株式市場のニュースは伝書鳩で伝えられた。古くから商船が入港時に貨物の内容を知らせるために使われていた。メディアの世界では、1836年にアメリカ人のダニエル・H・クレイグ(後のAP通信社の社長)が初めて伝書鳩を使ったとされている。ダニエル・H・クレイグは、ニューヨークの新聞界に革命を起こした日刊紙「ニューヨーク・サン」の厳しいオーナーであるアルナ・S・アベルの依頼を受け、ニューヨーク、ボストン、そして1837年に同じく成功した日刊紙「ボルチモア・サン」が創刊されたばかりのボルチモアの港の間で、ニュースの流れを加速させた。主な顧客は、ウォール街の投機家たちだった。

朝8時にロンドンを出発したアヴァスの鳩は、午後2時にパリに到着しました。足に巻かれたミニシートには、ロンドン証券取引所での各業種の初値が記載されている。ブリュッセルの鳩は正午に到着し、パリでも引用されているベルギーの炭鉱を紹介した。アンドレ・ユベール・デュモン教授(1809-1857)が、岩石学的・層位学的基準に基づく地質図を作成したことでウォラストンメダル(1840年)を授与されたばかりなので、特に人気が高い。

フェリックス・ギヨーム・マリー・ボガーツによると、最も速く、最も信頼できる鳩の2つの品種は、アントウェルペンアントワープ)とリエージュの鳩だった。専門家はアントウェルペンの港で2万5000羽もの鳩を数えた。1828年以前には7、8社しかなかった鳩レース協会が、1847年には約30社に増えていた。歴史家のフェリックス・ギヨーム・マリー・ボガーツは、ワーテルローの戦い以来、銀行家ネイサン・マイヤー・ロスチャイルドに仕えた「投資家の鳩」の伝説的な成功を呼び起こし、1828年のスペイン国債への投機では、「抜け目のない恥知らずな投機に利用された」と述べている。アントウェルペンからパリに向かう途中、ノール=パ・ド・カレー地方の伝書鳩飼育家たちは、この貴重な鳥に魅了された。

1848年の新聞ブーム、1851年の電信電話

フランスでは、1848年の革命により、報道の自由や集会の自由が実現しました。選挙権は男性に限られていたが、普通選挙を採用したことで、すべての人が有権者となり、自ら情報を得ることが求められた。4カ月で200、3年で1000と新聞が増えていった。価格も下がった。アルマン・デュタックが創刊した新しい日刊紙ラ・リベルテは、1ペニー、つまりわずか5センティムで販売された。それは、人気があり、手に取りやすく、心地よく書かれ、図解され、情報を提供する小出版物の将来の潮流を予感させるものであり、それは次第に海外を含めたニュースの大量消費へとつながっていった。

当局との取引関係や信頼関係のおかげで、アヴァス通信社は、1844年にはフランス国内に534局、5000kmの線路を持つシャップ電信網と間接的につながっていた。関税の優遇や郵便物の優先発送などの恩恵を受けていた。1837年に制定された電信専売法により、1878年の電信法制定までの40年間、国がゲームの中心に置かれていた。しかし、郵便局庁は技術の変化を遅らせ、ネットワークの共有には消極的だった。フランス初の電信線は、1845年にパリ-ルーアン間、1847年にパリ=オルレアン間、1848年にパリ=リール間に開通した。すべての県が内務省につながったのは1850年のことである。しかし、アヴァス社も1851年3月になってから、電報を使って、乱雑な電線でゆっくりとではあるが情報を収集し、顧客への貸し出し用に確保することもあったのである。

また、1860年当時のヒューズの電信機は、1時間に1000語(3.5秒に1語)しか渡すことができなかったというデメリットもあった。これが1874年には6倍になり、ボドーの電信機では1時間に6000語になったという。アヴァスにとっての当面の課題は、パリ証券取引所とロンドン証券取引所を結ぶ最初のリンクで、カレーとドーバーを結ぶケーブルによって1851年末から運用された。

天才的な最後の一手、パリ速報社の株式取得

1852年11月2日、シャルル・ルイ・アヴァスは引退した。1845年にシャルル・デュヴェリエ(1803-1866)がエミール・ド・ジラルダンの『ラ・プレス』に奉仕するために設立した活気あるパリ速報の株式を取得し、広告事業に参入した。1850年にマチュー・ラフィットに引き継がれ、広告部門を創設し、低予算の地方紙に全国規模の広告を提供した。パリ速報は、購読者の4ページ目と最終ページの標準的な広告スペースと引き換えに、ニュースの購読を諦めることが非常に多かった。

彼の2人の息子、オーギュスト・アヴァスとシャルル・ギヨーム・アヴァスは、ニュースの配信と広告の管理という2つのサービスを顧客に提供することができた。これが成功の鍵で、1853年にフランスの日刊紙に新たに「電報」のコーナーを設け、新たな購読者を獲得したことからも分かる。1852年から1857年までのわずか5年間で、2人の相続人は、買収や提携により、フランスの広告業界で独占的な地位を築き、ソシエテ・ジェネラル・デ・アノンスを設立しました。この帝国は、彼らの父親が1831年から1838年にかけて新聞事業で築いたものと同じ基盤の上に成り立っていた。前年にプランタン・オスマンを設立したジュール・ジャルゾーが1866年に起こした行動のように、時には法廷でも同じ批判にさらされた。

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最後に

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