サスーン財閥について『英帝国及英国人』伊東敬より

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今回は『英帝国及英国人』(1939年)の第一篇8章からサスーン財閥の今日まで、を掲載したいと思います。

 

 

『英帝国及英国人』

サスーン財閥の今日まで

どうも昔の人は上手い譬えを作ったりしたものである。例えば「敵は本能寺にあり」などと。

世人多くは、蒋介石政権の反日行為がわが日本をして対シナ積極工作に出でしめたと考えている。けれど春秋の筆法をもってすれば、今次のシナ事変を誘発したものこそは、現地シナの蒋政権一派にあらずしてはるかインドの国民会議党なりということができるだろう。

イギリスにおける国民会議党の指導権が消極的反英のガンジー一派から積極的反英のネルー派やボース派に移ると共に、幾多の在インドユダヤ人富豪はそのインドに見切りをつけはじめた。一方、近代、ことに欧州大戦以来、香港総督をはじめ在インドのイギリス首脳者たちは、落日の傾向にある在シナイギリス勢力の回復を計るため、イギリス系ユダヤ人富豪の対シナ進出を熱心に勧誘していた。

このような背景のもとに、インドから対シナ移転劇の主役を演じた財閥こそはサスーン一族にほかならなかったのである。

インドにおいても既に、サスーン動けば風雨を呼ぶとさえいわれていたほどで、資産総額優に30億万円台突破し、かれら一族は昭和4年ついにインドの将来性を見限り、まず総資産の三分の一提げて東漸し、香港および上海に本拠をおき、積極的にシナ開発事業に乗り出したのである。

そして昭和12年7月当時、彼ら一族の上海国際租界に有ある資産のみでも十二億万円と推算されていたほどで、金融・土地売買・貿易などとあらゆる経済財政に関する事業を営み、蒋政権の国民政府建設事業にしてサスーン財閥と没交渉なものを絶無とさへ称せられるにいたった。なかんずく、中国農民銀行および中国銀公司などは、サスーン財閥と蒋政権との連鎖によるものであるために国民政府の財政部や事業部の一統は、つねにサスーン当事者のお髭の塵を払わなければならなかった。

近代シナにおけるサスーン財閥はかれらユダヤ民族の得意とする投資50年計画の信条に基づきまず最初の25ヶ年間をもっぱら投資時期とし、26年目から後期の利潤収得時期とし、合計50年を経済的一単位とみて、もって長期遠大な計画で事業を開始したのである。

彼らはそのような大計を策する気魄をもち、つとめてシナ政府当局者と共同の事業に全力を傾注し、勢い必要の折々に施政者の権力を自由に利用のできるように心掛けた。

ことにサスーン財閥の特異性は従来イギリス系イギリス人富豪をはじめ列強の富豪たちが行うようなシナ軍閥から借款に応ずることを極力さけ、万一軍閥に融資してもそれが鉄道・道路・電力・ガス・倉庫というような公共事業あるいは生産事業にのみ活用されることを条件とし、かつある程度までそれを実施させた点にある。つねに国際間の相互交易に力を注ぎ、決して地方的に片寄った貿易取引に肩身をいれてはならないとはロンドン・ロスチャイルド家の家憲の一箇条であるが、わたしはサスーン財閥の投資をつとめて公共事業に集中し、低利率ながら堅実な元利繁栄の道を確保するという方針こそロスチャイルドの家憲とともに古今ユダヤ名訓の双璧と称しえるものと考えている。

すなわち、たとえ外国資本によるとはいえ、公共事業である以上シナ民衆としても排斥は愚か、それを是認し、歓迎する。そのような人情の自然を知悉しているサスーン財閥のシナ財界進出などに対し経済侵略という反感の声すら高められなかった。また、サスーン一族と密接な提携をした国民政府当局者も、徒らに売国奴漢奸のそしりをうける懸念の必要がほとんどなかったのである。寧ろ、われわれとしてもそれを他山の石と称するには、あまりに深刻な示唆を含んでいるものと言わねばらならない。

サスーン財閥は、すでに前世紀の中葉ころからインドや香港のみにとどまらず、上海方面においてもかなり活発に事業を経営していたのであるが、さる昭和5年、その本拠をボンベイから上海へ移転しきたるとともにイー・デイ・サスーン会社とデイヴィッド・サスーン会社およびサスーン金融会社と三社資本総額30億万円を擁し、イギリス利権という外装に保護されつつ、積極的に中南シナから、ひいては全シナをその活躍舞台化するに至った。

サスーン財閥の在シナ三社中、現在その本営としているのが昭和5年に創立されたサスーン金融会社で、シナ事変勃発当時までの国民政府のあらゆる建設事業あるいはシナと南洋やインドなど海外各地との金融取引関係を営業範囲とし、ロンドンに自身の総本部をおきニューヨークにはナショナルシティ銀行を代理店と定め、なおパリにもジュネーヴにもそれぞれ代理機関を具え、十分に国際的財閥の態様を示している。

国民政府の幣制改革や建設諸事業に対する借款、公債の割引や一般平和産業への投資または対シナ輸出信用保証の肩代わり、銀塊などの取引を行い、そのため国民政府はサスーンの財政的援助に対し、蒋介石直筆の「仁心義挙」と最大の賛辞を連ねた扁額を贈呈したほどであった。また、デイヴィッド・サスーン会社のほうは、サスーン一族の上海租界における推算十数億万円と号せられる不動産の管理を主として行っており、なお、イー・デイ・サスーン会社は、極東における彼らの各種事業の統轄を主管としている。

すなわち、国際金融投資・在シナ不動産管理・在極東事業経営と三大別した以上の三社によって、在シナサスーン財閥の行動機関は整備され、その人的内容としては、サー・ヴィクター・サスーンを総帥とし、サスーン家と親戚関係にある香港のユダヤ富豪レイモンド家や、デェヴェイ、またはサー・ヴィクターの義弟ガツベイなどを重役人に揃えている。

在シナイギリス利権すなわちユダヤ利権の代名詞なりとさえも言われる通り、サスーン財閥はシナにおける幾多のイギリス利権の内、比較的新しいものに従って鋭敏に利権を感じやすい利権の過半を占めているのである。そのサスーン一族が単なる一代富豪でない一端は、上述により察知されるであろうが、彼らがいかに本格的に国際的財閥であるか一瞥する必要があると思う。

1864年ボンベイで73歳を一期として永眠したデイヴィッド・サスーンは41歳の時イラクメソポタミア)のバクダッドよりインドへ移住したのであるが、バグダッドにおいてもすでに有名な商人であり、金融に貿易に手広く活躍していた。

彼がボンベイに落ち着きその名を挙げたデイヴィッド・サスーン合資会社を創立したのは、いまから百有七年の1832年の事であった。そしてその彼の息子たちは東洋各地に分散居住して、サスーン会社の支店網を形造り、為にインドを中心としてロンドンへも香港へもサスーンの営業陣は急速に而も根強く拡大されたのである。

次いで二代目のアルバート・アブダラア・デヴィッド・サスーンは有名な慈善家をもって鳴り、インド系イギリス人として最初のロンドン名誉市民を送られ、また1890年にはヴィクトリア女王より子爵に叙せられサーの称号を賜った。

ボンベイ港におけるかのサスーン・ドックは、実に彼らの手により、1895年に建設されたものであり、翌年彼は79歳をもって大往生を遂げた。然し東洋ことにシナに財閥サスーンの基礎を固めたものは彼自身ではなく、弟のエライアスであったのである。

三代目のサー・エドワード・アルバート・サスーンに至り、彼はフランスロスチャイルド家の娘と結婚し、またイギリス国王エドワード7世の親友と称えられたほどで、保守党員として、南イングランドのハイス地方から1899年以来1912年の逝去当時まで代議士生活をつづけた。したがってサスーン本家は二代となり三代となるにおよんで、実業界よりもイギリス政界に認められる存在となったのである。

そしてサスーン家とロスチャイルド家との契びとなっているサスーン本家四代目の当主がすなわち現イギリス連立内閣の土木大臣として輝くサー・フィリップ・サスーンで1888年に生まれイートン校からオックスフォード大学に学び、25歳の当時に家督を相続し、亡父の選挙区をも受けついだ。

彼は1924年の39歳当時に航空次官となり在任5ヶ年、1929年に枢密顧問官を兼任するにいたり、1931年英貨の危機に出現した保守党の首班とする連立内閣に、再び航空次官として返り咲き、1937年以来土木大臣としてイギリス政府関係の建築事業を統御しつつある。

サー・フィリップは当年五十有二歳、彼より七歳年長のサー・ヴィクターとは従々弟という遠縁の間柄であるが、真の兄弟のような密接さを伝えられている。本家は政治に分家は実業に斯くしてサスーン一族の繁栄は築かれた。

ちなみにサー・フィリップの趣味は絵画鑑賞と称せられ、その結果国立美術館などの理事さえも2・3つとめられている。それに反してサー・ヴィクターの趣味は、実業そのものらしいが、敢えて質せば馬の愛好が挙げられる。

然しそれは単なる馬ではなく競馬用駿馬の大量的愛育であり、この点同じサスーン家二当主でも、サー・フィリップとは興味ある組み合わせぶりを示している。

初代デイヴィッド・サスーンの次子エライアス・デイヴィッド・サスーンは父と共にボンベイの本店を盛り立てていた兄のアルバートと別れ香港に至り彼ら一家の在シナ支店を開設した。それは実にかのアヘン戦争による英支南京条約が締結され、シナにおけるイギリス人の地位が全く確立された1842年から2年後のことであった。

その後エライアスは自分自身の事業としてイー・デイ・サスーン会社を創立し、もっぱら紡績や染織の業務を行ったが、これが現在のサスーン財閥において在シナ各種事業の営業部門を主管とするイー・デイ・サスーン会社の出発となったのである。

ゆえに極東のみにおけるサスーン一家を論ずる場合、バグダッドからボンベイへ進出したデイヴィッド・サスーンよりも、その次子エライアス・デイヴィッド・サスーンこそ、始祖と仰がなければならないのである。

62歳で永眠した彼のあとをその後ヤコブ・エライアス・サスーンが襲ぎ、ヤコブはシナにおける事業拡張とともに西部インドにおける綿業開発上に目覚ましい指導的役割をも演じた。当時本家のエドワード・アルバート・サスーンは、上述のとおり、既にロンドンに定住し、刻々イギリス政界に足を踏み入れつつあり、勢い分家三代目のヤコブがシナのみにとどまらず、かつて本家の分担していたインド方面の事業をも一手で経営するようになったのである。したがってヤコブ・サスーンは南シナからインドへかけて肩で風切る勢いで活躍し、その目的な何れにあるにせよ慈善をも怠らず、またボンベイに中央科学大学を創立するなど、そして1886年に至り、イギリス本土に本邸を構える事になった。

これで政治に進む本家も事業に専念する分家も、バグダッドからボンベイ・香港に分散したサスーン一族は、何れもロンドンを本拠とするようになったのである。

ヤコブ・サスーンは1909年に子爵に叙せられ、欧州大戦中73歳をもって他界し、彼の次弟のエドワード・エライアス・サスーンが家督を相続した。しかしエドワードは相続当時すでに老齢であり、投手となったわずか8年足らずの1924年に72歳で永眠し、ついに彼エドワードの愛児エリス・ヴィクター・サスーン(通称ヴィクター・サスーン)がサスーン財閥の当主として登場したのである。

彼サー・ヴィクター・サスーンは1881年生まれの59歳、バグダッドのデイヴィッド・サスーンの曾孫であることは、本家のサー・フィリップと同じであり、またイー・デイ・サスーン会社の四代目当主に相当する。

彼の母が、エドワード7世国王のご用達をしていた宝石真珠の仲買巨商サー・エー・リバイの娘であったことは、本家当主サー・フィリップの母親がロスチャイルドの娘であったことと対比して興味あるものと思う。

また、サー・ヴィクターはハロウ校からケンブリッジ大学に学び、その学歴からしても、サー・フィリップのイートン校オックスフォード大学と対称的であり、それがかえって政治的本家と実業的分家との相互依存を密接にさせているともいうようである。

サー・ヴィクターは、大戦当時イギリス空軍に志願して飛行大尉まで昇進し、戦後はインドに全力を注ぎ1922年から翌年まで、そして1926年から29年までの前後4年間インド国民会議議席を有し、1929年には王立のインド労働調査委員会に委員となり、現実に即した労働問題・・・ひいてはインド社会の趨勢を自ら調査する機会に直面したのである。そして翌1930年(昭和5年)ついに彼はインドにおける所得税法の改正が、実業家に対してあまりに過酷なことを理由として、以後インドにおけるサスーン一族の事業打ち切りを表明するにいたった。

爾来、インドにおけるサスーン一族の事業は打ち切りとまではいかずとも極めて消極化し、30億ドル財閥の主動力をもって積極的中南シナ経済界に活躍しはじめたのである。

今次のシナ事変勃発当時サー・ヴィクターはロンドンにあり、ロンバート街付近のサスーン事務所で上海盲爆の号外を手にした。上海共同租界目抜きの江岸通りおよび南京路にあるサスーン・ビルディングやカセイ・ホテルをはじめ、めぼしい大廈高楼の過半数までが、実質的にはサスーンまたはその傍系財閥の所有に拘わると称せられている。

サー・ヴィクターは背丈高からず濃い口髭を貯え、外見気取ることなく、謙遜で少しも富豪らしからぬとはロンドン財界における定評である。しかし例え謙遜なりとはいえ、名実ともにサスーン財閥の総帥として収まっている彼である以上、その内面には優れた鋭敏さを抱懐していることも見過ごせぬと思う。

彼は不幸にも足が悪く、松葉づえを用いており、その道楽として競馬用の優秀馬をインドとイギリスで飼育し総頭数無慮250と称せられ、もって自分の足が自由ならぬ憤慨を迅走せしむる競走によって満足させ、而もその持ち馬の多いために勝馬賞金受取の率も頗る安全性多く、その収入は年額60万ドルを要する馬小屋関係の総支出を遥かに帳消しにして余りあると羨まれている。

一昨年、香港総督、サー・ジェフリー・ノースコートが現地に着任してまず最初に仁義を通した相手こそは、イギリス軍司令官ならず蒋介石大人でも勿論なく、実に財閥サスーンその人であったとさえ取りざたされたものである。それが単なる噂であるにせよ、もって現代在シナイギリス利権の問題上、サスーン財閥の存在が如何に重大であるかを立証する一例に相違ないと思う。それほどに偉大な彼らサスーン一族なればこそ、私はあえて彼らに向かって、徒らに見当放れの日本経済力の見通しに基づく小策を繰り返すことなく、わが日本と積極提携する手段こそ彼ら一族の得意とする投資50ヶ年計画の遂行にも東洋において彼らのために残された唯一の途である本然さを体悟するの日近からんことを切に祈ってやまないのである。

コメント

馬野周二の『米ソが仕掛ける騙しの経済』のなかにはこう書いてあります。

開戦と同時に上海占領を受け持っていた海軍がフリーメイソンの本部を押さえた。上海のフリーメイソンの親玉はサー・ビクター・サッスーンといった。彼はキャセイ・ホテル(今の和平飯店)を建てて、その最上階に住んでいた。

海軍がそのサッスーンの事務所を調べると、いろいろなものが出てきた。その中に日本の財界人からサッスーンに宛てたいろいろな手紙があった。当時のサッスーンといえば大変な金持ちと思われていて、まだ力のなかった日本の財界人たちにとっては、是が非でも関係を持ってひと花咲かせるのに利用したい相手であった、商売人というのは、資本があるとみれば、アリのように群がるものである。それを利用して、サッスーンは日本の実業家たちを釣ったのである。

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