【解説】イギリスのフリーメイソン史

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今回はイギリスのフリーメイソン史について解説したいと思います。事実に反する内容もあるかもしれませんので、エンターテイメントだと思って、疑いの目をもって読んでいただければ幸いです。

 

 

イギリスのフリーメイソン

フリーメイソンという組織についてはテレビをはじめとする媒体から見聞きしたことがある方も多いと思いますが、このフリーメイソンがどのような歴史を辿って発展してきたのかということについて解説していきたいと思います。今回は特にイギリスに焦点を当てていきます。

世界最大の国際的秘密結社とされるフリーメイソンは、アメリカの独立戦争フランス革命をはじめ、多くの歴史的事件と深く関わっているとされています。

日本でも古くは幕末の頃に日本を変革しようとした志士の中にもフリーメイソンの会員がいたともいわれています。

フリーメイソンが現在の国際的秘密結社となるまでに、大きく分けて3つの段階を辿っているとされています。

元々は中世の石工職人の作業現場の小屋がロッジの始まりとされています。フリーメイソンのメイソンとは石工のことをいいます。その後、職人ではない一般の会員がメイソンロッジの権威を利用するために入会するようになりました。更にこれらのロッジを管轄するものとしてグランドロッジが誕生します。

中世の資料から

フリーメイソンに関する最古の資料は中世末期の『ハリウェル手稿』と呼ばれるものです。『ハリウェル手稿』によると、石工の技術はギリシャ系のエジプトのエウクレイデス(ユークリッド)によって始まり、七王国時代のイギリスにその技術がはじめて伝わったと記載されています。

ほぼ同時代の『マシュー・クック手稿』には創世記に登場するジャバルに起源があり、その知識がエウクレイデスから、エジプトのユダヤ人に伝えられたとされています。

ギリシャ系の古代エジプトの数学者エウクレイデスは紀元前3世紀の人ですので、イギリスに石工技術が伝えられるまでの間には1000年以上の月日が流れています。聖書の記述から七王国時代まで石工技術や職人たちがどのような歴史を刻んできたのか知る手がかりはこれらの資料からはうかがえません。

聖書と七王国時代の間の1000年以上の期間を失われた1000年と解釈することもできるかもしれませんが、実際は資料通り、石工技術が七王国時代にイギリスに伝わったのかも定かではないでしょう。

むしろ資料としての情報があまりに乏しい所から、聖書の内容に合わせて後から話を創作したと考えることもできるとおもいます。更に聖書の記述もどこまで正しいかはわかりません。それでも聖書に誤りはないという信仰心から、これらの話は現在も権威化されている部分があるのではないかと思っています。

このような資料とは異なり、実際はもしかすると石工技術のイギリスへの伝来は、それよりも数百年前、あるいは数百年後と、時期として前後するかもしれませんが、この頃に技術が本当に伝わったとしても、けっして奇妙な話ではないかなとも思います。

グランドロッジ時代以後の歴史解釈

最初のグランドロッジであるプレミア・グランドロッジの元で、古い時代の資料をもとに、現代的な規約を作ることが求められました。ジェームズ・アンダーソンがこの仕事に着手し、規約の前書きにフリーメイソンの歴史を聖書に遡って作り上げました。

アンダーソンが作り上げた歴史の中で、七王国時代の王アゼルスタン王の息子のエドウィンがヨークでイギリスのメイソンの最初の大きな集会を行ったとされています。しかし今日アゼルスタン王には子供が存在しなかったことが知られています。

更にウィリアム・プレストンがアンダーソンの仕事を元にイラスト入りの資料を作り上げました。フランスでは十字軍のメイソンがホスピタル騎士団の庇護のもとで聖地から秘密を持ち帰りそれらを復活させたとしています。ドイツでは更にテンプル騎士団の神話も付け加えられるようになりました。

テンプル騎士団スコットランドのロスリンに逃れたという著者もいますが、ロスリンの物語はデマであるという反論もされています。

儀式にはソロモン神殿やピタゴラスユダヤ教キリスト教の一派、ケルト人のドルイドの歴史なども取り入れられるようになりました。

一方で、反フリーメイソン派からはオリバー・クロムウェルフリーメイソン創始者であるという解釈が登場し、同じく反フリーメイソン派のドイツの作家はフランシス・ベーコンや薔薇十字団との関係を指摘するようになりました。

『人間の権利』の著者としても知られるトマス・ペインもフリーメイソン古代エジプトまで遡って解釈しています。しかし個人的な感想を言わせてもらいますと、全体としてこれらのフリーメイソンの神話的な物語はほとんどが創作なのではないかという印象をうけます。

中世の石工

メイソンという言葉が登場するのは13世紀初め頃からで、石工職人は軟岩(フリーストーン)の砂岩や石灰岩を化粧石として加工していたことからフリーメイソン、あるいはフリーストーンメイソンという表現が生まれたとされます。また、石工が封建的な拘束を受けていなかったためともされており、スコットランドのロッジではこの点が重視されていました。

当時のマスターメイソンには、高い語学力や高度な幾何学的な知識、身だしなみが要求され、傑出したデザインを提出することが求められていました。このため、大工事を指揮するマスターメイソンは裕福で尊敬を集める存在でした。マスターメイソンは修道院の院長とも親しい間柄だったとされます。

ロッジは当初は作業現場の小屋を意味していましたが、やがて特定の場所に設置された石工の共同体という意味が付け加えられるようになりました。

宗教改革イングランドでのギルドを廃止する法案が可決されたことによってロッジは一時的に姿を消しましたが、政府にとって石工の技術は必要なものだったためにこの法律は廃止されました。また、この頃から個人が石工を雇うことも多くなっていきました。石工職人の神秘劇が聖人の日に行われていましたが、これらの劇は弾圧されました。これが現在のフリーメイソンの儀式に関連するとも考えられています。

スコットランドロッジ

16世紀に設計の責任者が石工ではなく建築家が行うようになると、メイソンロッジには建築家も加わるようになったと思われています。16世紀の終わりにスコットランドのロッジで議事録が作成されるようになり、やがて石工ではないメイソンが記録されるようになりました。

1634年に、最初の石工ではないメイソンが3人入会したことが記録されています。どのようにフリーメイソンが石工職人の団体から投機的な親睦団体に変化していったのかについては現在も解明されていません。メイソンロッジは貴族から入場料を徴収して資金を調達していたのではないかとも考えられています。また富豪や権力者を積極的に勧誘することで自分たちの給与や待遇をよくすることを試みたのではないかともいわれています。

17世紀のスコットランドにはエディンバラとキルウィニングに二つの大きなロッジがありました。やがて18世紀にスコットランドにグランドロッジが設立されました。

イングランドスコットランド

イングランド南部では石工職人ではない投機的なメンバーによるロッジが優勢となり、イングランド北部とスコットランドでは依然として石工職人との混合が優勢でした。こうした中、イングランドで1716年に4つのロッジが集会を開き、グランドロッジを形成することが同意されました。

議事録は1723年から作成されたので、最初期の内容は知られていません。年に4回の会合を開くこと、年に1度グランドマスターを選出する年次総会を復活することが合意されました。またグランドマスターはやがて組織の知名度を上げるために貴族が務めるようになりました。

グランドロッジが宣伝を行うことで投機的なメイソンが急速に拡大していき、それに伴い反フリーメイソン団体や出版物も増加していきました。フリーメイソンに幻滅した元メンバーがフリーメイソンの秘密を暴露することで利益を得ようとしたとされます。

フリーメイソンの規約は1723年にジェームズ・アンダーソンの編集したものが承認され、1734年にはペンシルベニアグランドマスターベンジャミン・フランクリンによってアメリカで再販されました。現在の連合グランドロッジで使用される規約はアンダーソンが発表したものとほとんど変わらないようです。

グランドロッジの拡大

グランドロッジは南ウェールズやウォリントンなどでも設立され、アイルランドでも二つのグランドロッジが誕生しました。またヨーク市のグランドロッジも独立性が認められていました。

一方でフリーメイソンの儀式の暴露が人気になり、メイソンに成りすますものが現れました。このため儀式とパスワードの変更を加える必要がでてきましたが、この変更を受け入れないロッジもありました。

イングランドアイルランドスコットランドのロッジはヨーロッパに拡大し、フランスでもグランドロッジが設立されました。フランスのグランドロッジは1773年に分裂し、一方はフランス大東社となりました。

イタリアではフィレンツェにイングリッシュロッジが設立され、1805年にイタリア大東社が創設されました。

ドイツではベルリンにスリーグローブスが設立され、フリードリヒ大王が皇太子時代にフリーメイソンになり、ベルリンロッジを認可しました。ドイツでは1250年のケルンで結成されたグランドロッジを最古と考える人もいますが、連続性を証明することが難しいとされています。

ロシアでも1732年にジェームズ・キースという外国人将校がサンクトペテルブルクのロッジのマスターになったことが記録されています。彼のいとこのジョン・キースはロシアのグランドマスターに任命され、1770年にはロシアに14のロッジがあったとされます。

ライバルグランドロッジ

ロンドンにプレミア・グランドロッジに対抗する古代派グランドロッジが誕生しました。古代派グランドロッジで20年間にわたり大書記をつとめたローレンス・ダーモットは、プレミア・グランドロッジを近代派と呼びました。ダーモットは近代派のロッジに入会してはならない理由を説明し、パスワードの変更は認められないとしました。

ちなみにスコットランドでも、キルウェニングが規約上2番目のロッジとされたことに不快感を示し、1743年にスコットランド・グランドロッジを脱退し、1807年まで再入会しませんでした。

フランス革命後、イギリス政府は革命の陰謀の可能性に不安を抱くようになり、ピット政権は秘密の宣誓を行う団体をすべて違法であると宣言しました。古代派・近代派・スコットランド・グランドロッジの代表はピットと会談することになりました。

近代派のグランドマスターは当時の皇太子で後のジョージ4世であり、代理としてモイラ伯爵が、古代派のグランドマスターで、スコットランド・グランドロッジの元グランドマスターのアソル公爵ジョン・マレーが会議に出席しました。会議の結果、フリーメイソンはこの法律から除外されることが決まりました。

古代派と近代派の統一

近代派のグランドマスターをジョージ4世の弟であるサセックス公爵が引き継ぎ、同時に古代派の指導権は同じくジョージ4世の弟でサセックス公爵の兄であるケント公爵に譲られました。ケント公爵はカナダの近代派と古代派を統合し、ロンドンでもサセックス公爵グランドマスターとする連合グランドロッジが設立され、近代派と古代派が統合されていきます。

ジョージ4世の父であるジョージ3世は、ピット首相やエドマンド・バークと同じくフランス革命の陰謀に対して危機感を抱いていましたが、その子供たちがフリーメイソングランドマスターをつとめていたというのは個人的には驚きです。フリーメイソンに対する敵意を感じ取った当時のメイソンがイギリス王室に自分たちの存在を委ねたかのようにも見えます。

現在のイギリスフリーメイソン

イギリスの連合グランドロッジはイギリス王室と深い関係にありますが、グランドマスターが常に王室の方々だったのかといえば、そうでもありません。

初代のサセックス公爵以外では、ヴィクトリア女王の息子である第4代のエドワード王子(後のエドワード7世)、第5代アーサー王子、ジョージ5世の息子である第6代ジョージ王子と続き、ジョージ5世の娘婿のヘンリー・ラッセルズが第7代、そしてエリザベス女王の従姉弟である現在の10代目のエドワード王子がイギリス王室の方々です。

エドワード王子は王位継承順位は41番目で決して高いわけではありませんが、少年時代から女王の代理としての役割も務めており、旧イギリス植民地での独立祝賀式典などにも出席しています。日本へもたびたび訪問されています。

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最後に

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