【解説】アメリカのフリーメイソン史

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今回はアメリカのフリーメイソン史について解説したいと思います。事実に反する内容もあるかもしれませんので、エンターテイメントだと思って、疑いの目をもって読んでいただければ幸いです。

 

 

アメリカのフリーメイソン

フリーメイソンの起源については、前回のイギリスのフリーメイソン史で触れました。今回はイギリスのフリーメイソンアメリカに渡った所から話を始めます。

アメリカでは1682年にスコットランド生まれのジョン・スキーンという人がニュージャージー州アメリカに初めてグランドロッジを開設したとされています。この時代がどういう時代だったかというと、イギリスでは1688年から89年にかけて、国王ジェームズ2世が追放され、ジェームズ2世の娘のメアリーと夫のウィリアム3世が国王として即位した名誉革命が起こっています。

1733年にはイギリスのグランドロッジが、ボストンのフリーメイソングループを認可しました。そこからマサチューセッツ州ニューヨーク州ペンシルベニア州サウスカロライナ州のグランドロッジにイギリスのグランドロッジは認可を与えました。

ペンシルベニア州グランドマスターだったベンジャミン・フランクリンはイギリスのアンダーソンが作った規約を再発行しています。ベンジャミン・フランクリンは1779年にフランスのナインシスターズのマスターにもなっています。

アメリカの初代大統領となるジョージ・ワシントンは1752年にフレデリクスバークのロッジでフリーメイソンに入会しています。フレデリクスバークのロッジはその後スコットランドのグランドロッジから認可されましたが、同じくスコットランドのグランドロッジから認可を受けたボストンのセント・アンドリュース・ロッジのメンバーだった銀細工職人のポール・リヴィアや医者のジョセフ・ウォーレンがボストン茶会事件に関わっています。

独立戦争当時のアメリカ軍のロッジは一部、スコットランドイングランドの古代派に属していましたが、圧倒的多数はアイルランドのグランドロッジに属していました。一方でプレミア・グランドロッジに所属しているロッジはありませんでした。

アフリカ系アメリカ人フリーメイソン

アフリカ系アメリカ人のグループは独立戦争後にアイルランドのグランドロッジにより認可されたことにより、アフリカン・ロッジNo.1を結成します。

更にメンバーはロンドンのグランドロッジに入会し、自由黒人コミュニティのリーダーのプリンス・ホールをマスターとするアフリカン・ロッジNo.459を認可されます。プリンス・ホールはペンシルベニア州ロードアイランド州にも支部のロッジを設立し、1847年にプリンス・ホールの名を冠したプリンス・ホール・グランドロッジを設立し、そのグランドマスターとなっています。

モーガン事件

1826年に反フリーメイソン派のウィリアム・モーガンが失踪した事件を機に、ニューヨークを中心に反フリーメイソン運動が活発化しました。この運動によりアメリカのフリーメイソンは一時的に衰退しています。

ウィリアム・モーガンが失踪する前の大統領ジェームズ・モンローや、1829年に大統領となったアンドリュー・ジャクソンなど、政権の中枢にもフリーメイソン結社員がいました。アメリカでは知られているだけでも45人の大統領のうち14人がフリーメイソンのメンバーだったことが知られています。

アンドリュー・ジャクソン運動は、サーロー・ウィードが中心となり、彼の政治顧問ウィリアム・H・スワードなどの指導により反メイソン党が結成されました。反メイソン党は大統領選の投票に参加するほどの大きな運動になりましたが、ワンイシュー政党としての運命かもしれませんが、次第にアメリカでの関心が奴隷制度に移っていったことなどが原因で解散することになりました。

友愛黄金時代から第二次世界大戦

この反メイソン運動が下火になると、アメリカでは再びフリーメイソンが力をつけ、南北戦争の頃には会員数が3倍までに跳ね上がりました。南北戦争後の1870年から1920年まで、まさに友愛の黄金時代を迎えました。

この時代のフリーメイソンの大統領にはジェームズ・A・ガーフィールドウィリアム・マッキンリー、セオドア・ルーズヴェルトウィリアム・タフトがいます。

日本人として最低限知っておく必要があるのは、その後日本とアメリカが外交上対立し、日本が真珠湾を攻撃し、その後、広島と長崎に原爆が落とされ、日本政府がポツダム宣言を受け入れたことにより、敗戦を迎え、新しい憲法を制定する運びとなったその時代のアメリカの大統領が、フリーメイソンの結社員だったフランクリン・D・ルーズヴェルトハリー・S・トルーマンだったということです。

戦後のアメリカの大統領でフリーメイソン結社員だったとされるのはジェラルド・フォード大統領だけですが、現在もフリーメイソンアメリカ社会にあって、そして戦争に敗れた日本にあって重要な役割を担っているというのは間違いないと思います。

このフリーメイソンという秘密結社は、必ずしも思想的、宗教的拘束力を持たない部分もあり、どんなに歴史を遡及してみても捉えどころがない部分が解消されるわけでもありません。

タクシルのデマ

1885年から1897年にかけてアメリカのレオ・タクシルがフリーメイソンローマ・カトリック教会のデマを流し続けたとされています。タクシルはフリーメイソン悪魔崇拝を行う組織だとしています。日ごろからフリーメイソン結社を快く思っていなかったカトリック教会も彼の著作からフリーメイソン批判を行いました。

しかし翻って1897年にタクシルは記者会見を開き自分が著作で紹介した暴露は架空のものであるとしました。タクシルの主張がどこまで創作なのかは分かりませんが、このタクシルのデマにより、フリーメイソンフリーメイソン陰謀論に対してこのタクシルのデマの前例を提示することで否定するようになりました。

タクシルの著作の是非はともかく、フリーメイソンの秘密の儀式には実際に堕天使ルシファーを想像させるようなアイコンが散りばめられているようにも見えます。このような要素がタクシルの想像を掻き立て、デマを作り出すのに貢献したのかもしれません。

タクシルのデマはフリーメイソンの儀式などから過剰に悪魔的要素を取り出し、強調したものだったのかもしれません。しかし同時にフリーメイソンのカルト的な儀式や規律には、タクシルのデマとは異なる会員たちをひきつける何かがあるのだろうというのも想像するには難しくはないでしょう。

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最後に

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