ヴィトゲンシュタイン『確実性の問題』より「疑うということ」

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今回はヴィトゲンシュタイン『確実性の問題』からの引用とそれについての個人的な考えをお話ししたいと思います。記事中には私個人の偏見や認識の誤りも含まれていると思います。その点のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

 

 

序文

疑うという行為は日本では否定的な意味でとらえられることが多いかもしれません。人間の疑いという行為は何を求めているのでしょうか。

引用文

すべてを疑おうとする者は、疑うところまで行き着くこともできないだろう。疑いのゲームはすでに確実性を前提としている。


ウィトゲンシュタイン全集9』p36

 

感想

人が物事を考えるとき、信頼を失ったために感傷的になったり、自己嫌悪に陥り自責の念に駆られたり、あるいは将来の見通しが立たないために悲観的になったり、あるいは思いもしなかった悪い出来事に失望したり、見通しが立たないことへの恐れから絶望したり、何かの見通しを嘲笑ったりなどの過程の中で、人は他者や物事について深い疑いを持つことがあります。

私たちが何かを疑うためには、何か自分の中で確固とした信念があるために疑いを持っているという言い方もできるかもしれません。それは正しいかもしれませんし、そうではないのかもしれません。そういった確固とした信念があるからこそ人は疑うことができるのではないかとヴィトゲンシュタインは言っています。自分の信念あるいは私たちが受けついだもろもろの伝統的なあるいは経験的な物事すべてを疑うということは、もはや疑いではないと彼は言っています。

私たちは私たちの世界の不確かさ、不明瞭さをより確からしいものとしたいために疑うのだと思われます。

個人としての不確かさは別のだれかにとっては不確かではないかもしれませんし、またその逆もあるかもしれません。社会的関係性における疑念というのは関係性の不協和を生み出すものかもしれませんが、互いにどういった部分が不確かなのかを確認しあうことで見えてくるものもあるかもしれません。場合によってはそういった試みが不毛に感じることもあるかもしれません。

いずれにせよ、人は最終的な次元では、たった一人で疑いのゲームを繰り広げざるをえない存在者であるような気もします。あくまでも最終的な次元での話ですが、しかし、それはあくまでも自分自身が確実性の問題と向き合っているときに感じる孤独かもしれません。

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最後に

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