連邦準備銀行――中央銀行の歴史

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この記事の内容は、様々な資料をもとに書かれています。

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できる限り公平かつ事実に基づいて記事を書きたいと考えていますが、この点を踏まえていただけましたら幸いです。

今回のテーマは連邦準備銀行創設までの簡単な流れについてです。記事は2021年03月04日(木)に書かれたものを元にしています。

 

 

スウェーデン国立銀行

世界で初めて誕生した中央銀行スウェーデンで誕生したスウェーデン国立銀行だったと言われています。
 
ヨハン・パルムストルックはスウェーデン王のカール10世に銀行の利益の半分を渡すことで銀行設立が許され、スウェーデンの貴族となりました。1661年にヨーロッパで初めて紙幣を導入したと言われています。銀行で印刷された紙幣はいつでも金貨や銀貨と交換することができるものでした。

しかしパルムストルックは必要に応じて担保なしに紙幣を印刷し、簿記も杜撰であり、紙幣と硬貨を交換するときに、必要な硬貨を持っていなかったために起訴されました。彼は称号と銀行特権を剥奪され、永遠の亡命もしくは死刑を宣告されました。死刑は免除されたものの投獄され、釈放された直後に亡くなりました。

1668年にスウェーデン国立銀行として議会にも承認されました。スウェーデンでは他にも紙幣を発行できる商業銀行が設立されました。しかし、そこで発行された紙幣の価値を保証する上で、スウェーデン国立銀行が預金のセキュリティのために必要とされました。こうしてスウェーデン銀行がスウェーデン中央銀行としての役割を担うようになっていきます。

イギリス中央銀行の誕生

イギリスのロンドンでは、高利貸しのユダヤ人とジェノヴァフィレンツェヴェネツィアを含む北部のイタリア人金細工職人が現在の銀行家の起源となりました。

ユダヤ人の入植地は主に旧ユダヤ人通りで、現在では中国銀行が置かれ、直ぐそばにはイングランド銀行もあります。1290年にユダヤ人がイギリスから追放されており、まず金細工職人がロンドンの銀行業全体を独占していました。

ロンドンの金細工職人は銀皿や古い硬貨から大量の半クラウン銀貨と呼ばれる通貨を作りました。商人たちは利子を払い、蓄えた半クラウン銀貨を金細工職人に預け、その代わりに領収書を受け取りました。この受け取った領収書がイギリスでの紙幣の始まりとなりました。

このような金融システムを作り出すことによって裕福となったロンドンの金細工職人たちは、イングランドの政治家、オリバー・クロムウェルを資金面で支えました。

この頃、ポルトガル生まれのユダヤ人ラビ、メナセ・ベン・イスラエルは、クロムウェルに対してユダヤ人のイギリス帰還を請願します。メナセが出版した『イスラエルの希望』がイギリスの千年王国を信奉するモーゼス・ウォールによって翻訳され、そのメシア思想も手伝って、1656年にクロムウェルによるユダヤ人のイギリス再入国を実現させます。

イングランド銀行を創設したのは1658年にスコットランドのダンフリースシャーで生まれたウィリアム・パターソンです。パターソンはスコットランドの中央アメリカの植民地化計画を推進したことでも知られています。この計画は実際には上手くいきませんでした。

17世紀末のイギリスは国の借金が毎年増加していました。1691年に初めてパターソンによって銀行の創設が提案されましたが認められませんでした。

パターソンは、後に大蔵卿となったハリファックス伯爵チャールズ・モンタギューとともに1694年にイングランド銀行を創設する法案を提出し、成立させます。当時のイギリスは大同盟戦争の最中であり、戦費が膨れ上がっていました。

イギリス政府が8%の利子で多額の借金をする計画を立てたことにより、トーリー党とウィッグ党は反対の声を上げ、また金細工職人や質屋などの貸金業者もまた怒りの声を上げたと言います。

チャールズ・モンタギューがウィッグ党であったこともあり、イングランド銀行はウィッグ党が握っていました。

イングランド銀行はやがて紙幣の過剰印刷により金の供給が追いつかず、1797年の小ピット政権の時に金と紙幣の交換を禁止する法律を制定し、金貨や銀貨ではない紙幣による経済が一般化していきました。

ロスチャイルド家

ロスチャイルド家は世界有数の富豪であり、19世紀には世界で最も財産を所有していました。イスラエルという国家を建国するうえでも重大な役割を演じてきた一族であり、21世紀においても絶大な影響力を誇っています。

ロスチャイルド銀行王国の創設者として知られるマイアー・ロートシルトは、神聖ローマ帝国自由都市フランクフルトのゲットーで生まれました。オッペンハイマー家に見習いとして働き、古銭商としてヘッセン家のヴィルヘルム皇太子に認められ宮廷ユダヤ人となりました。

父の後を継いだヴィルヘルム1世によりロートシルトは財産の運用を任せられ、国際銀行家としての地位を固めていきます。

マイアーには5人の息子がおり、長男のアムシェルはフランクフルトで父親の跡を継ぎ、次男のザロモンはウィーンに、三男のネイサンはロンドンに、四男のカールはナポリに、5男のジェームスはパリに渡り、それぞれ銀行家として活躍しました。

ロスチャイルド&カンパニーは、フランクフルト家・ウィーン家・ロンドン家・ナポリ家・パリ家の団結を示す5本の矢を束ねたロゴを現在も用いています。マイアーは5人の息子に一族の団結の重要性を教えたのです。

ロスチャイルドの5人の息子たちの中で最も成功したのがロンドン家のネイサン・ロスチャイルドでした。ネイサン・ロスチャイルド1802年イングランドフリーメイソンに入会し、金の取引をビジネスの基礎として、1811年にはNMロスチャイルド&サンズを設立します。

ロスチャイルド家の強みはヨーロッパに張り巡らされた通信ネットワークでした。ロスチャイルド家が所有する伝書鳩を用いて、信頼性の高い情報をいち早く入手することができました。

ネイサン・ロスチャイルドワーテルローの戦いのイギリスの勝利の報も他よりも早く入手し、いわゆる「ネイサンの逆売り」によって莫大な利益を生み出したとされます。

ネイサンの子ライオネル・ド・ロスチャイルドは、1875年のイギリス政府によるエジプトのスエズ運河の権益獲得のための資金を提供し、更に鉄道事業にも出資していきます。

ライオネルの長男のネイサン・ロスチャイルドはイギリスで男爵として認められ、ユダヤ人として初めて貴族院のメンバーとなりました。また、ライオネルの次男のアルフレッド・ド・ロスチャイルドイングランド銀行の取締役に就任し、その役職を20年間勤めました。

アメリカのかつての中央銀行

1668年に世界で初めてスウェーデン中央銀行が、イギリスでも1694年に中央銀行が誕生しましたが、アメリカでも独立戦争後の1791年に財務長官アレクサンダー・ハミルトンの提案に従ってアメリカではじめて国立の中央銀行が設立されました。

ハミルトンは銀行設立によって、独立戦争の際に発生した債務を各州に引き受けさせてそれを返済させ、更に新政府の資金を調達し、合衆国の共通通貨の作成を目指しました。一方、国務長官トーマス・ジェファーソンとジェームズ・マディソンは銀行の存在が違憲にあたり、国民の大多数に債務を負わせ、投資家のみに利益をもたらすものとして反対しました。

結果的に2月25日にワシントンは銀行法案に署名しましたが、1804年にハミルトンはアーロン・バーとの決闘に敗れて絶命し、1811年のマディソン政権下で銀行の憲章を更新する投票で反対票が上回り、第一合衆国銀行は廃止されました。

1811年にマディソン政権下で中央銀行が廃止されましたが、1816年にはそのマディソン政権下で再び銀行が復活しました。銀行復活を推進したのは、後にジョン・クインシー・アダムスの副大統領となったジョン・カルフーンと同じく国務長官となったヘンリー・クレイでした。ジョン・ランドルフ共和党の保守派による反対があったものの、第二中央銀行の成立が議会によって承認されました。

しかしアンドリュー・ジャクソン政権が成立すると、1832年から1836年にかけて反銀行派と親銀行派の間で対立が激化しました。この間の政治的対立を銀行戦争といいます。

第二合衆国銀行総裁ニコラス・ビドル、国民共和党(後のウィッグ党)のヘンリー・クレイなどの親銀行派に対して、ジャクソンは、トマス・ベントンや後の大統領ジェームズ・ポークなどの反銀行派の政治家を登用していきます。

またジャクソンは、新銀行派の財務長官ルイス・マクレーンとウィリアム・ディアンを立て続けに解任し、反銀行派のロジャー・トニーを任命します。

ジャクソンは第二合衆国銀行を廃止することに成功し、1836年には民間銀行としました。後の大統領はジョン・タイラーも銀行再建の法案を拒否しました。1913年に連邦準備銀行が設立されるまで、アメリカにはその後中央銀行は存在しませんでした。

連邦準備銀行創設まで

フランクフルトで生まれたジェイコブ・シフはユダヤ人ラビの家系で生まれました。シフの父親はロスチャイルドの仲介業の仕事をしていました。アメリ南北戦争後の1865年にアメリカにわたり70年に市民権を得ました。その後ヨーロッパに一度戻っていたシフですが、1874年にニューヨークのクーン・ローブ商会から勧誘をうけました。

投資銀行のクーン・ローブ商会は1867年にドイツ系ユダヤ人のアブラハム・クーンと彼の義理の兄弟であるソロモン・ローブによって創立されて銀行です。

シフは創業者のソロモン・ローブの娘であるテレーズと結婚し、1885年にはクーン・ローブ商会の責任者となりました。

1900年頃にシフは鉄道事業などに積極的な融資をおこないました。鉄道王エドワード・ハリマンと共にノーザンパシフィック鉄道の支配権を獲得しています。

最終的にシフはクーン・ローブ商会をJPモルガンに次ぐ投資銀行へと成長させました。

ドイツのユダヤ人モリッツ・ウォーバーグは1798年ハンブルグで創業されたMMヴァルブルクという銀行を経営していました。このモリッツには五人の息子を持ちましたが、それぞれがヨーロッパまたはアメリカを拠点として活躍しました。

長男のアビー・ヴァルブルクは家業を継がずに芸術史家、文化人類学者となりました。アビーはネイティブアメリカンの蛇信仰を研究し、ユダヤ教キリスト教、サタニズムなどとの共通点を考察した『蛇儀礼』などを著しました。

モリッツには他に四人の息子がおり、四人の息子たちは銀行家となりました。次男のマックス・ヴァルブルクはアビーに代わって父親の銀行を継ぎ、その代わりにアビーの学術研究の援助を申し出ました。

三男のポール・ウォーバーグはソロモン・ローブの娘と結婚し、クーン・ローブ商会の共同経営者となり、四男のフェリックス・ウォーバーグはジェイコブ・シフの娘と結婚しました。フェリックスはアメリユダヤ人共同配給委員会の指導者として活躍し、ヘブライ大学のアメリカフレンズの創設者となりました。五男のフリッツ・ヴァルブルクも銀行家として活動しています。

一族である植物学者オットー・ヴァルブルクは、1911年に世界シオニスト機構の会長としてイスラエル建国のために尽力しています。

19世紀末最大の銀行家となったジョン・モルガンは、アメリカのコネチカット州で生まれ、イギリス、スイス、ドイツで学生生活を送り、語学も習得しました。1857年に父親が経営する銀行のロンドン支店で銀行家としてのキャリアをスタートします。

19世紀末のアメリカで最大のビジネスは鉄道業でした。モルガンはアメリカ全土の鉄道事業を再編成・統合し、それをリースすることによって利益を上げました。また、鉄鋼業においては、カーネギー社を買収し、USスチールを設立します。USスチールは20世紀初頭には世界で始めて10億ドルを超える規模の企業となりました。

1930年代の世界恐慌よりも以前にアメリカでは何度か恐慌が発生していますが、1907年に取り付け騒ぎによりニッカーボッカー信託会社が倒産しました。この倒産により多数の銀行や信託会社で取り付け騒ぎが発生し、多くの銀行が連鎖的に倒産していきました。

この時、モルガンは金融システムを守るために自身の資産を注入して恐慌を防がなければなりませんでした。アメリ第二合衆国銀行アンドリュー・ジャクソンに潰されてから、恐慌から金融市場を守るためのシステムが存在しなかったため、JPモルガン、クーン・ローブ商会、ロックフェラーは中央銀行を再度創設することの必要性に迫られました。

1859年にペンシルベニア州エドウィン・ドレークが石油を掘り当てたことから、アメリカで初めて石油ブームが到来しました。この頃、ジョン・ロックフェラー北軍に食料や物資を供給する仕事をしていました。

南北戦争が終わりに近づいた頃、ロックフェラーは石油ブームに乗り、原油の精製に目を向け、1863年にはオハイオ州に石油精製所を建設します。当時の精製所は原料の60%のみを灯油などに利用し、残りの40%は廃棄していましたが、ロックフェラーはそこから様々な製品を生み出しました。また配管工を雇い入れて輸送コストもカットしていきました。

1869年にはオハイオ州クリーブランドは、アメリカの主要な精製所の一つとなり、生産能力は市場への供給量の3倍にまで達しました。1870年にはスタンダードオイルを設立し、国内最大の石油会社になりました。スタンダード石油は水平統合を行い、最大でアメリカの精油市場の90パーセントを占めるほどになりました。

ロックフェラーの息子ジョン・ロックフェラー・ジュニアは政治家ネルソン・オルドリッチの娘と結婚し、政界との繋がりも確固なものとなりました。1913年にロックフェラー・ジュニアが支配権を所有するコロラドの炭鉱でストライキが勃発し、1914年に労働者の家族が20人以上殺害されたラドロー虐殺が発生します。

酷い労働環境と虐殺により、ロックフェラー家の悪名もこの頃から拡がりはじめました。

1907年のアメリカでの金融パニックを受けて、クーン・ローブ商会の共同経営者ポール・ウォーバーグ、最高経営責任者のジェイコブ・シフらは信用資源を管理する中央銀行の創設の必要性を主張しました。

共和党上院議員ネルソン・オルドリッチは委員会を設立して、1910年11月にジョージア州にあるジキル島で財務次官補のA・アンドリューと共に秘密の会合を開いています。

ニューヨーク・ナショナル・シティ銀行頭取のフランク・ヴァンダーリップ、JPモルガンの共同経営者であるヘンリー・デイヴィッドソン、JPモルガン代理人であるベンジャミン・ストロング、クーン・ローブ商会のポール・ウォーバーグがこの会合に参加しています。

この会合で作られた法案はオルドリッチの義理の息子であるジョン・ロックフェラーJrやジョン・モルガンなどと密接な関係にあるとして批判されました。

しかし、1913年にオルドリッチによって作られた法案は、ウッドロー・ウィルソン政権下で僅かな修正を加えられ、クリスマス前夜に連邦準備制度として成立しました。

まとめ

アメリカの歴史の中には確かに反中央銀行の歴史が刻まれています。それと同時に、建国以来、銀行家勢力による中央銀行設立が常に模索されてきたとも言えるでしょう。

トランプ大統領アンドリュー・ジャクソンを尊敬していた理由の一つとして、第二合衆国銀行を解体した点が挙げられます。ジャクソン以後もこの対立は長く続いていました。

連邦準備銀行や日本中央銀行を考える上でも、中央銀行創設の歴史を知ることが重要だと思います。あまり語られていませんので、手短にまとめさせていただきました。情報をシェアしていただけますと幸いです。

さいごの一言

最後までお付き合いいただきありがとうございました。ご感想などありましたら、気軽にコメントください。