真正保守は存在しない――日本の保守言論のドタバタ劇

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記事は2014年に私が書いたものです。多くの日本の保守派が真正保守を目指してきましたが、結局、真正保守の実像を見出すことができなかった。これまでも、そしてこれまでも、どうして真正・似非議論が空転するのかを論じています。

 

 

2014年01月27日真正保守と似非保守についての考察

偽物と本物の保守

保守論に関して比較的よく耳にする概念に「真正保守」および「似非保守」という言葉がある。「似非保守」という概念は「真正保守」という積極的概念に対する消極的概念と考えるならば、まず「真正保守」とは何かということを考える必要があるだろう。

さて「真正保守」という概念が意味する思想および信条が一体どういったものであるのか、少なくとも明確にする必要があると思う。どのような思想および信条が「真正保守」とされているのだろう。これについてどのような思想、信条を主張している思想が「真正保守」を標榜しているのかを一先ず見なければならないが、歴史的にみて「真正保守」を自認する「保守」あるいは「保守主義」を見出すのは実は厄介な作業なのではないかと思える。

私たちは所謂「保守」と呼ばれる思想、信条について歴史的経緯も踏まえて知ることができるが、それに更に「真正保守」という思想、信条を見出すこととなると実は難しい。そもそも「真正保守」なる思想、信条の実在性があるのかと問われれば、場合によっては否定的な結論さえ見出せるのではないかと思う。

歴史的経緯に基づく近代保守主義のはじまり

一つに「真正保守」を自認する思想および信条の幾つかについて言えば、所謂エドマンド・バークを中心として言われる「近代保守主義」のそれとは同一ではない場合がほとんどである。つまり「近代保守主義」と関係のないところに「真正保守」が存在するという捉え方をするのが、もしかすると「真正保守」を考える上で重要になってくるかもしれない。

私が知る限りにおいて所謂「真正保守」という概念を口にしだした知識人をあげるならば、西部邁中川八洋あたりが思い浮かぶ。もしかするとそれ以前に「真正保守」という概念を口にした日本の知識人ないし海外の知識人はいるかもしれないが、あくまでも自分が知る限りではこの両者である。

この両者における「真正保守」の概念は一応エドマンド・バークを中心としたいわゆる近代保守主義に言及した上で主張されている。この二人の思想および信条が実際に「真正保守」なのかどうかの精査はともかくも、一応、近代保守主義を念頭においているという点は外すわけにはいかない。西部邁の捉える保守と中川八洋の捉える保守は一致していないというのは、この二人の著作を読んだことがある人ならば明白な事実であると思うが、後者は特にハイエクを重んじる傾向にあり、因みにハイエク自身は自らを保守主義者ではないと言っているが、バークやトクヴィル、更にはハイエクに見られるような自由主義的傾向を指して「真正保守」とみなしている。前者に至っては普通保守主義者とは捉えられていない人物も含めて保守論を展開しているが、単純にこの二人の所謂「真正保守」は一致していないと断定することができると思う。

異なる主張が真正性の争奪戦を繰り広げる

こうなると「真正保守」を自認しているこの二人の主張のうち、もし仮に「真正保守」が間違いなく実在していると仮定した場合、「少なくとも」一つは「似非保守」になるという論理的結論が導き出せるのではないかと思う。またこの両者に限らず二つ以上の異なる「真正保守」を標榜する思想、信条が存在した場合、もし仮に「真正保守」が間違いない実在すると仮定した場合、少なくとも一つ以外の「似非保守」が存在していることになるという結論が導き出せるのではないかと私は思う。

「正しいこと」および「間違っていること」に関して私は幾度となく自らの考えを表明してきた。少なくとも「正しい」ということを確定するためには、私はその「正しい」ことを意味する対象が必要であることを論じた。ただしその「正しい」対象について何故「正しい」のかという論理はその対象の必要性の論理とは異なるという点は挙げられると思う。

同語反復が繰り広げられるということ

また私は論理に関してトートロジーについても触れた。私が思うに「真正保守」とは「トートロジーの系」にある論理であり、実はその「真正」の意味は全く意味されていないと思う。

真正保守」という概念は単に「正しさ」と自らの思想、信条が結びつけられたものであり、その「正しさ」については一向に論じられていない。そもそも保守と標榜する思想の幾つかは差異があり、そういった複数の思想や信条をも意味する概念として捉えた「保守」に対応した「正しさ」は一先ず無意味である。

またその複数の思想、信条から特定の思想、信条を選び出して一つの「保守」に対応したものに対する「正しさ」ということならば一先ず意味が通るが、その特定の「保守」のみを「保守」とし、他の「保守」を「保守」としないとしたならば、まずその特定の「保守」がなんであるのかを明確に表示しなければならないはずであるが、多くの「真正保守」を自認する人々はこれを行っていない。従って「真正保守」は他者にとって「得体のしれないもの」であり続け、故に情報として「真正保守」足りえないと断定していいと思う。

真正を語るのであれば真正性を提示せよ

私は、表現者がその表現において保守の緻密な論理を標榜せずに「真正保守」を主張することは傲慢であると思う。そもそも他者にとって対象がないままなのだから。ないものについては誰にも精査はできない。

少なくとも私が思うに「真正保守」を標榜するにはそれなりの論理とそれなりの理屈が必要であり、少なくとも対象を示さない限りの「真正保守」は無意味だと断じたい。また対象を示したとしてもそれが「真正保守」を意味するかどうかは更に別の話であり、「真正保守」を標榜することは、単に「覚悟がある」だけでは全く不十分であると見做されても仕方がないものであり、仮に「真正保守」を標榜するならば「途方もない」理屈と努力の結果として傲慢ながら表明していただきたいと思う。恐らくそれでも不十分とみなされる可能性は大であろう。

補足:

2021年

もう何年も前の言及ですが、今でもこの議論が看過されているので再び転載します。

日本には真正の保守が必要だという議論は、私が知る限りでも、20年前から存在しています。そして今日に至るまで結論から言えば、真正の保守は現れませんでした。そして今後も現れないでしょう。

誤解を恐れずにいうのであれば、自分が真の保守と他人に認められようと、エセ保守と認定されようとも、自分が正しいと思った言論を展開すればいいだけであり、それが真の保守であるか、偽の保守であるのかなんて議論はどうでもいいはなしだと思います。