ビリヤナ・ジュルジェヴィッチのアート作品

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2017年、ピザゲート問題が話題になってしばらくたったころに私が書いた記事です。

2017年05月21日
ビリヤナ・ジュルジェヴィッチ

 

 

ジュルジェヴィッチとトニー・ポデスタ

ピザゲート問題で登場するトニー・ポデスタのお気に入りのアーティスト。トニー・ポデスタの自宅兼ギャラリーにはジュルジェヴィッチの作品も展示されている。マリーナ・アブラモヴィッチの作品同様に、強い拒絶感を呼び起こす。

ジュルジェヴィッチはセルビア生まれのアーティストである。彼女の作品も、マリーナ作品と同様、「人身供物」、「生贄」、「児童虐待」、「幼児性愛」などを暗示している。

アメリカの政治権力の中枢にいる人間の周辺にはこのような人間が数多く登場する。残念ながら探すといくらでも出てくる。

彼女らの作品を見ると、何も知らなければ、薄気味悪いアートと感じられ、それが彼女たちの何と繋がっているのかまでは考えることができない。

魔術と奇術

しかし古代エジプトから続く歴史と照らして見てみると、何かが透けて見えてくる。そこには「魔術」の存在も見え隠れしている。

「魔術」と聞くと、現実的ではないもののように思えるだろうが、これを「マジック(奇術)」と言ったらどうだろうか。

マジシャンは様々な舞台で、観客を一気に惹きつけ、観客を魅了する。すべての観客がたちどころに彼の世界に埋没し、彼に騙される。「マジック」にはそれだけ人を動かす力が存在する。

これと同様に「魔術(マジック)」も同様に人を惹きよせる力があると考えるべきだろう。「魔術」も長い歴史の中で人知れずに積み重ねられてきたもの、人々を惹きつけるものがおそらくあるのだろうと考えるべきである。

そしてそうであるがゆえに、このような慣習は絶たなければならない。これらの慣習はヨーロッパの片田舎で人知れず行われているものではなく、人知れず世界の中心地周辺で行われていると推測して間違いない。

私たちは私たちの価値観を表明しなければならない

これに対して極東の島国において先祖が築き上げた人倫のあり方を表明しなければならない。私たちは彼らに対して意見を表明しなければならない。

世界では人々の信仰心とは別に、そちら側の世界に取り込まれる人間、彼らにコントロールされる人間が多数生まれている。

このような狂人たちのイベントが、一般大衆の秘密裏に世界のあちこちで行われているということがインターネットの普及により暴かれつつある。

歴史上何度も、燻っていた火の粉が炎上してきたが、ここにきて反セム主義が爆発する可能性もでてきた。

マス・メディアが登場し、第二次世界大戦が終了して以来、反セム主義は世界中で燻ってはいたが、大きな炎上を見ることはなかった。

彼らはメディアを巧みにコントロールすることによって、反セム主義を抑えてきていた。しかしマス・メディアを操作する力それ自体が強大であった時代は終わりに向かいつつある。

ピザゲート問題、ヒラリー・クリントンのメール問題とは、このような歴史的経緯があるのだと思う。従って、もしピザゲート、ヒラリー・クリントンのメール問題が事実だとすれば、この問題が完全に終わることはおそらくない。

これらの問題の本質がさらに暴露されるまで、欧米のオルタナ右翼メディアによる糾弾の動きはとまることはないだろう。

現代に残る生贄の儀式

動画内に首を掻っ切られた鶏の絵があるが、このような生贄の習慣は普通にある。カッパロトといい、ヨム・キプルの前夜にユダヤ人の習慣となっている贖罪儀式を指して言う。この日は大量に鶏の首が掻っ切られ、無造作に捨てられる。

これらの鶏は殺すために育てられているのではなく、儀式で人々の頭上に振りかざし、彼らの穢れを取り除き、最終的に首を掻っ切るために育てられたものである。

生贄となって首を引き裂かれた鶏にはゴミまたは穢れたものとしての意味しかなく、生きたまま無造作に捨てられる。「血の中傷」において「生贄」が無造作に捨てられているのもこのためであろう。

ユダヤ教選民思想を調べると、人によってはこの選民思想が正しいのではないかと考える人間がいるかもしれない。はっきり言うがユダヤ教選民思想はカルトでしかない。彼らの選民思想は妄想であり、願望である。

彼らの聖典タルムードは、以前に挙げた論理の推論方法で取り上げたが、誤推論の積み重ねであり、ただひたすらに妄想と願望の積み重ねである。

タルムードには何の根拠もなく、ただただ古代ユダヤ人の憎しみや信仰心からくる妄想が延々と記述してあるだけである。それがあろうことか、ユダヤ教徒の学者連中はこれらの思想やユダヤ教の「魔術(マジック)」を「科学」であると考えている。

これを滑稽と言わずしてなんというべきだろうか。様々な民族的な妄想を抱いていることは、間違いなく事実である。そして一種の慣習や伝統については擁護しえる部分も多い。

明らかに凄惨で、邪悪な「魔術」や「思想」には擁護するに値する論理は存在しない。

しかし「宗教」とは恐ろしいかな、どのような凄惨で邪悪な習慣であっても、人々はそれを強く信じるものなのである。このような習慣に私たちは決して屈するべきではない。

追記

2021年

2017年に自分が書かれたものですが、今見返すと冷静さを失っているような印象をうけます。ピザゲート関連の情報は当時として私の中で極めて衝撃的な内容でした。