『支那に於けるコミンテルンの活動』

見出し画像

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回は昭和12年(1937年)、内閣情報部監修『支那に於けるコミンテルンの活動』文部省を紹介します。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

 

 

序論

過般ソ連邦における7将官の銃殺事件および、これにいたるまでに5回におよんで刊行された陰謀事件の内容が、種々各様に世界に宣伝されるや、ソ連邦と不可分一体をなすコミンテルンは弱体化し、したがって世界の共産主義勢力も後退するにいたったと信じられるようになったが、かかる見解は実は危険な憶測と言わなければならない。国際共産党すなわちコミンテルンおよびその指導下にあるところの各国際共産主義勢力は、依然として世界赤化の運動を続けてやまず、特にシナにおけるその策動は一層巧妙に遂行され、東亜平和の癌としてその存在はますます恐るべきものとなりつつある。今次北支事変における彼らの陰謀の深刻なることに鑑みるときは思い半ばにすぎるものがある。

以下最近におけるコミンテルンのシナ赤化政策および抗日運動の真相を述べてみたいと思う。

1⃣ コミンテルンの淵源

コミンテルンの現状を語るためには、今日におけるまでのコミンテルンの歴史について一言し、その趨勢の大略を知る必要がある。

全世界の共産主義革命を終局の目的とするコミンテルンが創設されたのは18年前の1919年(大正8年)の3月である。これは第三インターナショナルと称されるもので、レーニンを中心とする少数派の戦闘的な共産主義によってロシア革命を成就した原動力であり、同時に大衆を駆って革命運動に向かせる「行動のインターナショナル」である。この国際的革命団体は各国の共産党をその支部とし、本部をモスクワの共産党本部内におき、2年に1回宛世界大会を開催し、各国の共産党の代表を招集して最高機関とし、その下に執行委員、事務局、機関紙部(宣伝本部である)などの組織を整えているのである。

ちなみに1935年(昭和10年)の第7回大会に出席した加盟支部数は65、これらの支部によって代表されている党員は315万人で大部分はソ連邦内の党員であり、内いわゆる資本主義国党員は75万人と称せられた。

成立以来今日にいたる18年のあいだ、コミンテルンはその支部たる各国共産党に指令し、共産主義の宣伝および社会秩序の攪乱のため、陰に陽に執拗な活動を続けてきたのであるが、ある時は破壊および扇動的宣伝による攪乱を露骨におこない、ある時は潜行的策動を事とし、転じて従来犬猿の間柄であった第二インターナショナルに握手をもとめてファシズムおよび帝国主義に対抗するため統一戦線を張るなど、その活動の様相は実に千変万化である。

2⃣ 中国共産党全盛期の蒋のクーデター

かつてレーニンが「アジアにおける共産化の工作は西欧において勝利を得るための準備である」と述べたが、コミンテルンが結成されて以来、この方針は変ずることなく持続され、世界赤化政策の一環としてシナの赤化政策を遂行し、これを中心に満州国および日本に対して策動している現状である。

極東赤化工作の実践はコミンテルンの代表としてヴォイチンスキーがシナに派遣されたことから始まり本格的なものとなっていった。当時のシナの社会情勢は農村には極端な荒廃と貧困があり、都市にはようやく近代資本主義の搾取形態が整備され、軍閥の封建的勢力は依然として地方住民を圧迫しており、全く共産主義の宣伝には誂えむきの状態であった。一方世界に漲っていた階級闘争意識はシナの知識階級に侵入し、すでに強力な赤化の萌芽をうちに蔵していたため、ヴォイチンスキーの活動はたちまち奏功して、コミンテルンのシナ支部たる中国共産党の結成に成功したのである。


その後コミンテルンは、ソ連邦政府と共に右の中国共産党を中心にシナ全土の赤化運動の激発に努力し、ヴォイチンスキー代表が帰国して後も引き続き多くの有力指導者、顧問が相次いで入シし、ついに抜くべからざる赤色勢力を扶植して今日に及んだのである。がなかんずく1924年大正13年)から1927年(昭和2年)にいたる約4年間というものは、いわゆる連ロ容共時代で赤化勢力の飛躍的進展、拡大をみたところのシナ共産党運動史上の全盛時代である。この事情を大略すれば、大正13年正月には、広東において開催された国民党第一次全体代表大会の決議をもって、北方軍閥打倒のために国民党によっていわゆる連ロ容共政策が採用された。その後大正14年3月12日孫文が北京において客死してのち、兵権を中心に国民党の実権を握った蒋介石は翌大正15年7月、自ら国民革命軍司令官となり、七軍を統率して広東を出発、北伐の途に上り、武漢を占領して国民政府は広東から武漢に移したのである。この北伐敢行の背後にはソ連邦のガレン将軍(現在ソ連極東司令官ブリュヘル元帥)があり、国民政府の政治上の最高顧問に同じくソ連邦ボロディンがいたことは衆知である。

※ヴァシーリー・ブリュヘル、ガレン将軍の名は妻の名前にちなむ

上記のとおり、シナ共産党勢力は最高潮期に達すると、武漢政府を牛耳っていた共産党は、昭和2年正月国民党中央全体会議において国民党派を圧迫し、蒋介石の軍権および一切の権利を剥奪して、一挙シナの共産化を計った。

そこで蒋介石は北伐中の軍を武昌において二分し、自ら共産党派を殲滅すべく東に軍を進めて、同年3月24日南京を占領して、共産党弾圧のクーデターを敢行し、武漢政府を否認し、昭和2年4月18日同地に南京政府を樹立したのである。

一方武漢において共産党は、蒋介石に対抗するために同地唯一の実権者である唐生智一派の湖南軍、並びに国民党の左派である汪兆銘一派と密に連絡して湖南の地盤に食入り、共産主義一流の赤色テロを行い土地を没収するという暴虐な革命を遂行した。湖南軍の大部分を率いて北伐の途上にあった唐生智は、これを聞いて憤激のあまり俄然態度を一変して急遽軍を帰し、武漢において共産党のクーデターを加えるに至ったのである。かくて8月19日武漢・南京両政府は妥協合体することになり、ソ連邦側の顧問は追放されついに連ロ容共は全く清算され、共産党軍の敗北となったのである。この両者のクーデターによって、銃殺処刑されたもの数万と言われるほど、共産主義勢力は侵入しており、それだけに損失は多大なるものであった。

3⃣ その後の中国共産党およびコミンテルンの活動

前述の1927年(昭和2年)における国共分離以後は、共産党機関は撤退をみ、その活動も衰頽に向かったが、コミンテルンの対シ赤化活動は、中心的指導機関であった極東局(その所在地については上海説とハバロフスク説とがあって真相は判明しない)およびミフを首班とする駐華代表などによって遂行されていたのであって、満州事変後ソ支外交関係の復活に連れてこれら機関もまた復活され、事変後赤化運動は活気を呈し、さらに1935年(昭和10年)の夏コミンテルン第7回世界大会が開催された結果、反ファッショ統一戦線運動、すなわち人民戦線運動を開始するとともに、赤化工作は一段と熾烈さを加えてきたのである。

右の裏面においては、直接モスクワのコミンテルン本部からあるいはまた沿海州方面から有力な工作員をシナに増派し、 さきに北鉄譲渡によって満州赤化の足場を失った旧北鉄従業員の共産分子を潜入させ、特に北支方面に主力を注ぎ、従来上海にあった中国共産党の最高執行機関である中央委員会を天津あるいは北平に移動させたと伝えられている。

満州事変以来蒋介石一派による抗日運動が展開されるや、コミンテルンは好機乗ずるべしとみて中国共産党その他の抗日諸団体に対する潜行的策動のほか、親ソ的宣伝工作に堂々と乗り出し、各種の文化的、社交的機関および新聞、雑誌などの定期、不定期刊行物により、さかんに独特の宣伝を行い、大衆の赤化運動に乗り出したのであるが、この種の宣伝工作は着々と効果を収め抗日人民戦線の結成となるや、一層にシナ大衆の扇動に拍車を加えるにいたり、北支事変に対しても一大役割を演じるに至ったのである。

今日コミンテルンの対日赤化運動上、コミンテルンの指導ないしは利用関係があると疑われている在シ各機関の主なものは、外交機関を除くと次のようなものである。

① 中ソ文化協会

これは1935年(昭和10年)10月支ソ両国の文化的結合を名目とし会長孫科、名誉会長ボゴモロフの下に、両国人多数をもって南京に組織された団体であって、1936年(昭和11年)3月には支部を上海に新設し、表面は文化団体を標榜しているが、シナ朝野の親ソ分子を多数吸収しようとし、巧妙な親ソ抗日宣伝を創立以来活発に続けている。これはソ連邦記念日をはじめその他機会あるごとに盛大な会合を催し機関紙「中ソ文化」を発行し、現在ソ連邦ないしはコミンテルンの対シ文化機関の中心であり、秘密工作の中心的存在であると見られている。

② 上海ソ連邦居留民クラブ

1937年(昭和12年)3月上海ソ連邦総領事スピルワネークを名誉会長として、創設され、創立後日は浅いがこの活動にも表裏があり、警戒されている。

③ 全ソ連邦中央購買組合支部(ツエントロソユーズ

表面はソ連の対シ貿易機関であって、上海、漢口、天津などに設けられているが、明らかにコミンテルンの対シ赤化機関として利用されている。その上海支部は1936年(昭和11年)3月閉鎖されたが、これに代わるものとして同時に、全ソ穀物輸出組合連合支部が新設され、前者の業務はそのまま後者に引き継がれた模様である。

④ 全ソ連邦穀物輸出組合連合支部

1936年(昭和11年)3月上海に新設され、従来のツェントロソユーズ上海支部の後継者となったことは前述のとおりである。

⑤ モスクワ人民銀行上海支部

⑥ 全ソ連邦石油トラスト上海出張所

ソ連邦国営極東商船隊上海代理店

⑧ 天津インヴェストメント・コーポレーション

1935年(昭和10年)末、旧北鉄ソ連従業員により設置されたソ連人銀行で、これは北支方面の赤化運動資金の供給としての疑いがあり、上海にその支店を開設しようとしている。

⑨ ヴォストワーグ商会(福祥公司

表面はドイツの貿易会社として、裏面においてソ連邦諜報機関としての役目をつとめて来たものといわれている。その支店は上海、天津、張家口にあり、そのスパイ行為はついにヒトラー政権樹立後、ドイツ政府の弾圧をうけて一応各支店共営業清算中であったが、1936年(昭和11年)9月からアダム・ブルビスなる者がこれを福祥公司と名称を代え、アメリカ国籍のもとに業務を継続し、支店を天津、帳家口においたのである。これまた前者と同様コミンテルン赤化機関としての疑いが濃厚である。

この他抗日宣伝の言論発表機関としてタス支部をはじめチャイナ・デイリー・ヘラルドなどは共産党の御用紙の役目をつとめ、そのほか上海イヴニング・ポスト、チャイナ・プレス、時事新報などはどれもそのその背後の資金関係を疑われており、「中国呼声」をはじめとする各種抗日的雑誌、定期印刷物の数は夥しきものである。

4⃣ 抗日人民戦線とコミンテルン

コミンテルンは1935年(昭和10年)夏、モスクワにおいて開催された第7回世界大会において、世界各国における反帝国主義運動、反ファシズム闘争の激化を決議すると共に、特にシナにおいてはその客観的情勢に鑑み、上記反帝闘争を抗日闘争に集中すべきむねの方針を決定したのである。

すなわち同大会における決議中

植民地および半植民地における共産党員の最重要任務は反帝人民戦線の創設事業であり、これがためには最も広汎な大衆を、ますます増大する帝国主義的搾取反対、残酷なる奴隷化反対、帝国主義諸国駆逐、国土独立の民衆解放運動に誘引し、民族革命および民族改良主義的諸団体との共同動作を達成せざるべからず。
シナにおいてはソヴィエト運動の拡大および紅軍戦闘能力の強化を全国における人民反帝運動の展開と結合せざるべからず。
この運動は帝国主義的圧迫者、なかんずく日本帝国主義およびそのシナ従僕に対する民族解放闘争なるスローガンによりこれを遂行せざるべからず。
これがために諸ソヴィエトは解放闘争における全シナ国民の統合的中心たるべし。
帝国主義諸国のプロレタリアートは各自その解放闘争のため、帝国主義的侵略者に対する植民地および半植民地国民の解放闘争を百方支持せざるべからず

と宣言して、シナにおける抗日人民戦線の新策略を採用したのである。

なお同大会には王明をはじめ多数の中国共産党の代表が出席し、右の抗日人民戦線策略について意見を述べ、協議の結果、中国共産党は以上のコミンテルンの意を体し、同策略をいかに実践に移すべきかについての具体的方法に関して審議を重ね、ついに8月1日付をもって重大宣言を発するに至ったのである。

これこそ実に、八一宣言として知られている中国共産党中央委員会中華ソヴィエト臨時中央政府の名義によるところのもので、
「抗日救国のため同胞に告げるの書」の宣言である。

上宣言において中国共産党は抗日人民戦線運動を正式に提唱し、全満シの各種勢力を糾合して、広汎な抗日救国政府の樹立および抗日連合軍を組織することを提唱した。

続けて同年末、右の宣言の趣旨を更に敷衍した一二・二五決議およびその他数箇の決議および宣言を発表していよいよ抗日人民戦線運動の激化を策動したのである。

これらの中国共産党の宣言、決議などに発表されている主張は従来同党が唱えてきた共産主義による階級闘争に関する革命理論や、土地革命理論を著しく修正したものであり、またソヴィエト政策の各般についても緩和された民主主義的理論政策に近い内容のものに修正された巧妙なるものである。

上のような内容を有する抗日人民戦線の新戦術は非常なる成功発展を遂げ、各種抗日救国団体、抗日学生団体はいち早くその傘下に集まり、ついに1936年(昭和11年)には全国各界救国連合会を中心とし、これらの各抗日救国団体をもって広汎なる抗日救国組織が結成され、同時にシナ各地に上組織の執拗な煽動によって悪性の抗日テロ事件が頻発するに至ったのである。

一方中国紅軍(共産党軍)は1936年春大挙して陝西省北部よりも山西省に侵入し、略奪を壇にして北シナ一帯に非常な脅威を与えたが、上共産軍の行動は抗日人民戦線の方向に適った抗日行動ということができるのであって、このことは次の事実によっても裏書されるのである、すなわち前記コミンテルン第7回世界大会における決議中に次のように明示されている。

・・・シナにおいては、ソヴィエト運動の拡大および紅軍戦闘能力の強化を、全国における人民反帝運動の展開と結合せざるべからず・・・

上指令に基づいて、当時侵入した紅軍がさかんに抗日宣伝を行ったのであって、当時の紅軍の行動が全シ抗日人民戦線の発展に及ぼした影響は甚大なものであったのである。

かくて上人民戦線の魔手は、西北にあって剿匪に従事していた張学良、揚虎城などの旧東北軍および西北軍の内部にのび、ついに昭和11年12月12日の西安事変の勃発を誘導し、シナ全土のみならず、世界を驚愕せしめたのであるが、西安事件後、中国共産党は国民政府に対し、更に妥協的態度を深め、国共合作を熱心に提唱し、これがためにはソヴィエト地区の解消、紅軍の改編すら辞さざるがごとき態度にでたのである。

上事態に対しては、1937年(昭和12年)2月の三中全会において赤化根絶決議案を通過せしめ、国民政府は共産党排撃の態度を一応闡明にしたが、政府部内では親ソ派などの分子は連ソ容共説を唱え、その結果国民政府は代表張冲を西安に派して中国共産党首領周恩来などと具体的合作問題に関し折衝交渉し、その結果紅軍との抗日共同戦線を張る点に関し、妥協が成立した趣である。この事実は今般の北支事変により表面化し、積極的に提携を促進せしめる運びとなったのである。

5⃣ 北支事変とコミンテルン中国共産党、共産軍の活動

① 事変前の活動

本年3月中国共産党首脳毛沢東アメリカ人作家スメドレー女史と会見し、共産党の対日態度について次のように述べた。

われわれは決してあくまで日本に挑戦しようというのではない。日本との妥協は決して不可能ではない。しかしわれわれは日本が対シ侵略行為を中止し、軍部がその年来の政策である大陸政策を放棄せざる限り、断じて挑戦の戈を収めるものではない。現在の情況では日本は依然として対シ侵略行為を遂行している有様である。したがって共産党軍の対日方針は次のごとく厳たるものである。
(1)日本をして即時対シ侵略政策を放棄せしめる。
(2)日本をして東北四省と察北を返還せしめ、満州国と冀東政府を廃止せしむること。
(3)華北駐屯軍を即時撤退せしめること。
(4)北支における大量密輸の禁止。
(5)日本側飛行機のシナ通航の自由の撤廃。
(6)シナ各地における日本特務機関の撤退。
この目的を達成するため、われらは年来の敵である国民政府と妥協して、抗日戦線に一致の行動をとるものである。共産党が各種の具体的政策を実行するに決定したる目的は前述のごとく真の対日抗戦と中国防衛を実行戦がためである。ゆえにわれわれは共産党および国民党の両政権の対立を排除し、国内平和を実現せしめるべきものを思料する。しかしてこれを切実に実行するにあらずんばいわゆる対日抗戦は不可能である。これすなわち部分的利益を全体的利益にまた階級的利益を民族的利益の前に放捨せしめるの意である。国内各政党個人は均しくこれ大義を明確に認識するを要す。共産党は決して自己の観点をもって、一階級または一時的の利益に束縛するものにあらず、われらは常に全国民族の利害に対し関心を払い、従来の階級闘争に関しては次のごとき見解を発表するものである。

1⃣ 資本家、地主は財力権力を有するゆえに彼らこそ、第一に民族利益を尊重して、工農の生活と待遇改善に努力すべきである。もし資本家、地主にして工農を搾取せんか、工農を生活しあたはず、しからば抗日は全く不可能なり。ゆえに良心ある資本家、地主は相国民を啓発して、抗日工作のため工農の生活改善と政治生活の向上に賛意を表すべきである。

2⃣ 中国における工・農プロレタリアートは、財力も権力も有しないが、抗日救国の主要力量である。抗日挑戦に彼らの参戦なくば絶対に勝利なしと断ずるものである。もし彼らの経済的なみに政治的生活を改良せば、彼らの反資本主義運動は直に減少するであろう。われら中国共産党の提出する内容は実に愛国主義の性質を十分に具有するものであってあえて国民党の主張におとらざるものである。まさに祖国防衛は目下の急務である。ここにおいてわれらは国民党と提携して日本に抗戦すると共に更に国際主義をもって世界大同運動を主張するものである。

3⃣ 世論共産党と国民党とは実際上提携不可能と説くも然らず。共産党における幹部、朱徳周恩来彭徳懐、劉伯承、賀龍、林彪葉剣英、徐向前などはすでに国民党の領導幹部たりし者であり、更に林白渠、呉玉章、革秘武、謝覚哉、董惟健は国民党中央委員たりし事がある。この関係をみても提携の可能なることを知りえるであろう。

4⃣ 抗日戦争の勝敗については次のごとく確信するものである。すなわち中国の膨大なる資源と自然条件は長期戦争を支持しうべし。紅軍の過去十年における戦史は明らかにこれを裏書きするものである。日本はすでに独伊両国の同盟国を獲得した。もとより中国のみをもって日本にあたりえるもわれらもまた友軍を求むべきである。われらは英米仏ソの諸国と共に太平洋連合陣を結成し、一挙日本および独伊の侵略国家を攻撃せば勝利は絶対確実である。

毛沢東は上記のような所信を開陳したが、これに呼応するがごとくコミンテルンは3月上旬ボロツキー、コルスキーおよび中国共産党秘書良李、幕飛、政治部主任、石仏遵を代表として南京に派し、孫科を通じて

  1. 中央軍においては共産党圍剿計画を取り消すこと。
  2. 中国側は反共産主義の宣伝を中止すること。
  3. 共産党軍は抗日軍として改編す。
  4. 甘粛、寧夏、新疆を共産軍の根拠地とすること。
  5. 賀龍、徐向前、徐海東を剿偽匪予備隊とすること。
  6. 張揚部隊を東方へ移動すること。
  7. 日本の権利を一切否認すること。

を提出せしめたが、この返答として3月中旬、国民政府側は賀衷寒、張中、載笠、鄧文儀などを陝西に派して共産軍に対し綿衣十万着を送り、毛沢東に会見して

  1. 共産党の主張する連合、抗日はもとより賛同するところであるが、共産軍は今後中央の命に従うこと。
  2. 中央は今後即時内戦を停止し、かつ剿共の口號を取り消す。
  3. 北軍に懲罰を与えず、安徽、河南を与え、改編する共産軍に対しては中央軍と同様に待遇給与する。
  4. 西北共産党の軍需品は西安行営主任顧視同と協議し供給を受けること。
    を回答した。

さらにまた三中全会において汪兆銘は個人として「一国一政府、一国一軍主義の元に共産軍の存立を許さず」と演説したが、政府要人中には、宋慶齢、馮玉祥、孫科、李烈均などの根強い容共抗日派がおり、蒋介石としてはその政権行使上これら一派の存在を絶対必要とし、西安事件において共産派の調停に対してある種の妥協条件を与えたため、事実共産軍の存在を許したのみならず月々十万元の軍費を支給し、陝西省付近の十数県を与えて彼らの駐屯地たらしめ、国軍としての改編を加えることを約し、同会に対しておくった通電の事項を承認して、毛沢東に対して

「兄らの誠忠を感謝す、機あらば兄らを重要な地位に登用すべし」と返電したと伝えられた。
ちなみに三中全会に対して中国共産党が送った電文は次のごとくである。

中国国民党全会諸先生謹■。西安問題が和平的に解決せるは国をあげて祝するところなり。今後も和平統一団結禦侮の方針をもって国家民族の幸福を実現しうべし。日寇娼獗して中華民族の存亡一髪千釣の際わが党は長堂三中全会が次の各項目をもって国策を定められんことを切望す。

  1. 一切の内戦を停止して国力を集中し一致日本に当たること。
  2. 言論、集会、結社の自由を一切の政治犯人、抗日英雄を釈放すること。
  3. 対日抗戦の一切の準備工作を迅速に完成すること。

もし貴党三中全会が果たしてよく毅然として以上の国策を確立されるならば、わが党は団結禦侮の誠意を表示するため貴党三中全会に対し次のごとき保証をなすに吝ならず。

  1. 中華ソヴィエト政府を中華民国特別区政府と改名し、かつ紅軍を国民革命軍と改名し、直接中央政府並みに軍事委員会の指導に従う。
  2. 地主の土地没収政策を中止す。
  3. 抗日民族統一戦線の共同綱領執行を確約す。

国難日に旺なる時、われらは中国のため忠誠を尽くすことを天日に誓う。諸先生かわが党の誠忠を容れ、全民族の救亡統一戦線を実現させんことを切望す。
われらは等しく黄帝の子孫たり、同じく中国民族児女たり、国難にあたり、一切の成因を放棄し、親密に合作し、共に中国民族の最後的解放、打倒日本の偉業に赴かん。
ここに謹んで伝達して明教をもち、並びに民族革命の敬礼を致す。
中国共産党中央委員会

以上のごとき経過のあと4月14日西安において、南京代表顧祝同と共産党代表周恩来とが会見し、次の初項に対して正式調印を行ったのである。

共産党軍は中央軍の編成、整備を採用、三ヶ師(十二団)に改編すること。
師長は共産党側より、団長は国民党より任命すること。
各団体には政治訓練所を設け、所長は国民党より出すこと。
軍費は南京政府より支給し、月額十万元以上とす。
駐屯地は綏遠、陝西、および甘粛省とす。

以上が事変前における中国共産党と国民政府との妥協提携の概略であるが、この間においてコミンテルンがボロツキー、コルスキーらを派して一切の指導を与え、今後の方針について打ち合わせを行ったことは最も注目すべきものと言わなければならない。改変された紅軍は青天白日旗を軍旗として進軍することになったが、中央軍として改編前の編成は次のごとくである。

共産党軍の編成

晋西紅軍指揮          徐海東
山西省ソヴィエト政府主席    蕭克強
中央紅軍晋西枝隊総司令     彭徳懐
中央紅軍晋西枝隊政委      毛沢東
中央紅軍晋西枝隊参謀長     蘇淡如

第二十五軍軍長         徐海東
第四十一師長          張士■
第七十三師長          (不明)
第七十五師長
補充師長
(兵力3500)

中央紅軍陝甘枝隊
総司令             彭徳懐
副指令             林彪
政委              毛沢東
政治部主任           王稼蓄
第三国際代表          李徳
第一従隊指令          林彪
第一従隊政委          (※以下省略)
第一従隊指令
第一従隊政委
第一従隊指令
第一従隊政委
(兵力4000)
晋西紅軍第一路指揮
晋西紅軍第ニ路指揮
晋西紅軍第三路指揮
晋豫邊区遊撃指令
(兵力6000)

B 事変直後の活動

北支事変勃発するや駐支ソ連大使館補佐官コンスタンチノフは飛行機にて天津に向かい二十九軍との折衝を行ったことが探知され、駐支ソ連大使ボゴモロフは10日南京政府軍首脳を訪問し、ソ連邦はシナの味方であることを述べ適当なる方法によって援助することを提案したと伝えられた。

またコミンテルン満州における党員に指令し、軍資、武器を供与して共産匪の増強を図り一万全満州鉄道従業員の怠業を扇動し、「日本は北支を侵略し、更にその戈をソ連邦に向け、全満を復び放火の巷に導くであろう。」と宣伝した。

果たして12日よりモスクワ新聞はどれも北支事変をもって日本側の計画的行動なりとし、日本を攻撃し、シナに同情的評論を掲載した。「北支における日本の煽動」なる見出しの下に多大な紙面を割き、上海、北平、東京、ロンドンよりのタス電報を公表したソ連新聞の要旨は次のごとくである。

盧溝橋事件は日本側が当然シナ兵を射撃したことに端を発したもので、事態はすこぶる重大である。日本側の該事件の平和条件をすこぶる過酷であって、盧溝橋を日本側へ明け渡すことを要求している。かつ日本側は追加的に非武装地帯の設立に関する要求も提出しているが、上は北寧鉄道をも同地帯に包含せしめようとする魂胆である。日満陸軍および海軍は続々北支へ移動させているから、日本は武力で北支を占領するに違いない。これは明らかにわれわれが警告したところの帝国主義侵略戦争である。

かつ上海におけるソ連機関紙チャイナ・デイリー・ヘラルド紙、背後の資金関係を疑われているイヴニング・ポスト、チャイナ・プレス両紙および雑誌「中国呼声」は一勢に抗日挑戦、挙国決戦を扇動し始めたのである。

更に事変直後、コミンテルンは指令をもって盧溝橋事件に中国人民青年団護綏工作団、反帝同盟、および中国共産党有力分子をもって冀東除偽団なる秘密結社を結成せしめ、北支にあるシナ各軍に対して抗日戦争を煽動していたことが判明した。

かかるとき、蒋介石は7月9日、周恩来共産党第一線の闘士)を廬山に招致して次の事を協議した。

  1. 国民大会の職責は憲法の制度のみによらず、公正なる民主主義自由の権利を保障するものとす。
  2. かつ民主中央政府を組織し、抗日民族統一綱領を通過せしめ、全民族の抗日意志を代表せしめること。
  3. 国民大会の代表も特権階級のみを指定的のものとせず、各党各派をもって随意競争選挙に参加せしめること。
  4. 共産党員は個人として国民党に入党し、委員として加盟しえること。

これは将来のシナの行政に共産党の参与を保証する会談として注目されるものであり、蒋介石共産党とが完全に手を握ったことを実証するものである。北支事変は実に共産党にとっては予期以上の収穫である。今後日シ問題が円満に解決するにせよ、共産党はシナを赤化し、煽動し、さらにソヴィエトの前衛として日本に対峙するであろう。

北支事変勃発するやコミンテルンは、西安事変のためにシナに帰国中であった中国共産党駐ソ代表王明をして陝西省層施にあるシナ共産党本部とソ連共産党本部を往復せしめ、コミンテルン本部の意向なりとして、中国共産党を通じ蒋介石に次の内容を提議した。すなわち

  1. ソ連中国共産党を通じ、極力国民政府を援助する。
  2. シナ共産党を速やかに義勇軍を組織して陝西、甘粛、山西諸省の諸単と共同して西北地区に活動する
  3. 満州朝鮮および日本の共産党と共同して、日満鮮内に暴動を起こす。
  4. 在シ日本紡績会社などに暴動を起こす。

蒋介石はこれらの提議をことごとくいれたという事であるが、朱徳毛沢東蒋介石に対して、

「日本に対しては国民等しく憤慨するところ、われらは至誠をもって一致団結これにあたらんとす。さすれば貴官においては早速抗戦命令を発せられよ。われらは所属部隊を率いて、尽忠報国、国防の第一線に立たん。」

と通電し7月8日には毛沢東朱徳彭徳懐、賀龍、林彪、徐向前、劉伯堅の連名をもって宗哲元、張自忠、劉汝明、馮治安宛下記要旨の通電を発した。

第二十九軍の英雄的抵抗を聞き、義憤に燃ゆる紅軍将士は随時移動貴軍に追従し一戦を決す。全軍勇躍殺敵、この通電に共鳴せよ。

北支における日本軍を諸方面より包囲してこれを殲滅せんとすることは彼ら戦略であり、前述の陝西、甘粛付近にあった朱、毛軍の一部は事変勃発と共に急遽北上を開始し、綏遠省内に入った。彼らは自ら宣言するように綏遠熱河方面より日本の背後を襲わんとしたのである。

なおこの戦略と共に、かれらは北支にパルチザン戦法を行い第包囲戦に相呼応せんとしているのである。これに関しては前述せる陰謀工作において詳述したところである。情報によれば、事変を機に北支赤化ならびに共産軍抗日義勇軍組織指導のため浦■から数名の駐在員が派遣され、第二十九軍では300名を超える将校が赤化されていたといわれている。

共産党の北支における戦略は中国共産党軍事委員会の責任者の参考に供せられた文書に発見されたもので次のごとき内容を有している。

全国人民は抗日救国なる呼声のなかにおいて、現在人民力量の一大団結を遂行すると同時に、華北武装保衛すべく戦わんと準備しあり。

すなわち現在中国人民は一切の武的力量を集結展開し、華北の前線にある日本軍を包囲して日本軍と大規模の作戦を敢行し、一挙日本軍の陣勢を瓦解せしめ、その南下を阻止せんとする作戦と、日本軍を華北内地に誘い長期の戦闘をなさんとする作戦とを考慮しつつあり。

吾人は明言す。吾人は前者の壊滅的主要作戦をとり、決して後者の失敗主義的策略をとるべきにあらずと。

すなわち一度抗日戦争開始されんか、全国陸・海・空軍の現有する一切の武装力量を華北の辺境と一般抗日戦線とに向かって動因集中し、地方人民の普遍的武装によって壊滅的戦略の前途に多大の光明をあたうべし。

人民の普遍的武装と全国陸・海・空軍の前有する一切の武装華北の辺境に集結せる結果における武装力量の総数は、日本軍に対比して絶対的に優勢の地歩を確保すべく、しかも革命方面が人民の指導的地位に立たんか、中国人民武装の数量上における優勢は必然的に質量の優勢にまで発展す。その場合関東軍天津軍が如何に先鋭の武器を有すといえども、南京および諸軍閥が平素人民の膏血を絞りて貯蔵せる大量の軍器および中国人民の武装力量、すなわち精神的、物質的総動員との総合によって、数量上の優勢より質量上の優勢まで到達しえることはさらに疑う余地なく、この数、質上における武装力量の優勢は吾人をして抗日戦争において完全に日本軍を華北において殲滅しえる自信を有す。

ソ連邦赤軍の軍事専門家は、かつて赤軍の戦術精神を「作戦の迅速化」と「攻撃の強化」とにありと指摘せり、中国人民武装の設備およびその訓練はソ連赤軍と日を同うして語らずといえど、中国人民はその民族的自覚と団結とによって、作戦上における勇気と決意ならびに人和と地利とを表現しえるものなれば、ソ連赤軍の最も正確にして最も堅確なる指導だにあらば、この種の「作戦の迅速化」と「攻撃の強化」とを実現することは極めて容易にして、このソ連戦術を取り入れることは、まさに中国人民の進行せんとする抗日殲滅戦の前途を勝利に導くことを表示せるものなりというべし。

これに加え、吾人は殲滅戦と同時に、一切の必要なる方面において遊撃戦を進行して吾人の主力の殲滅戦に配合することによりて、吾人の殲滅的勝利を助長しうべし。
すなわちもし吾人の全国の総動員と総武装とがすでに相当の広度と深度とに到達し、全国の陸、海、空軍が、人民の圧迫下において抗日戦線に集結せば、基本上吾人は殲滅戦をとり、躊躇するのことわりなく、むしろ進んで敵の侵攻を挫き延長戦の苦痛を滅せんとするものなり。

ゆえに吾人の面前の急務は殲滅戦をとるを主要戦略として、まず華北武装親衛し、華北の滅亡を救い、人民抗日の社会的集結と、言論ならびに武装との絶対的自由の獲得を実現し、かつ一切の売国的独裁政策に反対するにあり。

関連記事

最後に

最後までお付き合いいただきありがとうございました。もし記事を読んで面白かったなと思った方はスキをクリックしていただけますと励みになります。

今度も引き続き読んでみたいなと感じましたらフォローも是非お願いします。何かご感想・ご要望などありましたら気軽にコメントお願いいたします。

Twitterの方も興味がありましたら覗いてみてください。

今回はここまでになります。それではまたのご訪問をお待ちしております。