Twitterは議論向きのコンテンツではないということ

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こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回はTwitterの使い方について議論していきたいと思います。

 

 

今日のSNS

今日の文明化された社会には、Web上に様々なソーシャル・ネットワーク・サービス、いわゆるSNSと呼ばれるコンテンツが存在しています。

その最も代表的なものとしてFacebookTwitter動画共有サイトYouTube、モバイルメッセンジャーアプリのLINE、更に若い世代では簡易的で視覚的なコンテンツであるtiktokInstagramなどが流行しています。

代表的なコンテンツに限らず、よりニッチな、あるいは専門的な活用ができるサイトもあり、どういったコンテンツを使っているのかということも、ユーザーの特徴の一つということもできるかもしれません。

SNSコンテンツはそれぞれに特色のあるサービスを提供しており、世界中のユーザーは複数のコンテンツを同時並行的に利用することで、それぞれのコンテンツの利点を上手く活用することで、より有意義に社会的ネットワークを構築しています。

かつて国内で匿名掲示板が広く活用されていた時代には、匿名でその個人をほとんど特定できないような時代がありましたが、現在は同じ匿名であっても、アカウント名でブランディングし、個人のプライベートを公開することなく、複数のコンテンツを行き来することで、自己同一性を保持しながら、クリエイティブな活動を行うことが、以前よりも一般的なものとなっているように思えます。

Twitter

ソーシャル・ネットワーク・サービスが誕生し、いち早くその代表的なコンテンツとして人々の間で広く利用されるようになったものにTwitterがあります。

Twitterの思想は、今日のtiktokInstagramに通じるような緩い「繋がり」を生み出した、という点で画期的であり、いま現在何が起こっているのかということを、分かりやすく手短に知ることができるコンテンツとして非常に便利であり、広くネットワークを構築しやすいものとなっています。

従来の文字でメッセージを伝えるコンテンツでは考えられないような文字制限が、緩い繋がりを容易に生み出す源となっています。

Twitterには多くの利点があると同時に、文字数制限などによって多くの側面が犠牲にされています。

このためTwitterの運用はどうしても限定的なものにならざるを得ません。恐らくSNSの使用者でTwitterのみを使用しているという人はほとんどいないものと思います。Twitterが犠牲にしている側面を他のSNSサイトで部分的に補完するという使用例は実際に多く見られます。

Facebookやブログなどの日記ベースのコンテンツでこの点の埋め合わせをする場合や、動画サイトのYouTubeTwitterでは表現できないことを表現している利用者も多くいます。

Twitterは何故議論に向かないのか

Twitterが議論に向かない理由はいくつか考えられますが、その代表的な原因は、文字数制限と緩いが他のSNSよりも強いネットワークという2点があると思います。

議論にも、テーマによってはより学術的な内容のものもあり、この場合より詳細な資料を提示する必要性がでてきます。

文字制限と連投

物事を検証するにあたり膨大な資料を用いて検証しようとする場合、Twitterは文字制限があるためTweetを連投することで、議論を続ける必要がでてきます。

Twitterに存在しない機能にタイトルや見出しがあります。これは一般的な文章にはほぼ存在し、従来型の文字言語を用いたSNSサイトにもほぼ確実に存在します。単語と単語をつなぎ合わせることで生まれる文章を、タイトルをつけることで一つの大きな枠組みの中に、更に複数の見出しをつけて、その下に順じ並べていくことで、作品全体が構成されていきます。

文字制限による弊害をTweetの連投で埋めようとしても、Twitterにはタイトルと見出しが存在しないため、どんなに議論のためのコンテンツを作ろうとしても、大抵の場合、他の多くの無関係に近いTweetの中に埋もれてしまいます。

これは実際のところ、Twitterの魅力の一つではありますが、一方で議論する上での弊害にもなります。

「緩い」がしかし「強固」な繋がり

Twitter上で議論する際に、タイトルや見出しがない以上に大きな弊害となっているのは、Twitter最大の売り物である繋がりがあります。

ただでさえ、Twitterには文字制限があるのに、この繋がりが議論を妨げます。議論を行っている中心メンバー以外の外野が、多数その議論に雪崩れ込んでくる可能性があり、これが議論を妨害します。

それまでの議論の文脈を無視して、特定のTweetのみを読んで、議論を行っている人たちの背景を無視して、独自の解釈を行って、その議論には全く必要のない議論を持ち出してきます。一人二人ならばまだしも、そういった人たちが大量に、時には数百人レベルで雪崩れ込んできます。

Twitter以外のコンテンツでは基本的には外野はコメント欄など、いわば、観客席からの発言権しか与えられませんが、Twitterでは全く無関係な人間が、ボクシングの試合のリングに雪崩れ込んできて、化粧の濃いドレスを着た女性から、ビール瓶片手の酔っ払いまでもがその試合に参加してくるかのような状態になります。そして彼らはこういいます。何故試合を続けないんだと。

ちなみに何もキャバ嬢風の女性や酔っ払いの中年男性を否定しているわけでは全くありません。彼女は多くの男性から求められているのであり、男性は酒を飲んでいなければやってられない世界に生きているのでしょう。その行為を否定する理屈を私は持ち合わせていません。ただ、そのボクシングの試合には無関係であり、観客席から降りてくるなという、それだけの話なのです。

しかし、この批判は実際には通用しません。Twitterというコンテンツで議論すれば、おのずとそうなるのであり、そこでボクシングの試合を行った方が悪いといえばそれまでの話です。

特にフォロワーが多い人の場合は、意図的にフェンスを取り払い、観客席からそういった人たちを尖兵として議論の相手に突撃させることができるという点にも目を向けるべきでしょう。そんなものを相手にする必要がありません。

Twitterからの離脱

Twitterで議論が発生した場合にこの問題を解決する最良の方法は、別にリングを設けること、あるいは、Twitter以外で一方が自分の議論を提示するという方法を取るしかありません。

これをTwitterでの議論からの逃げであると考える人がいるかもしれませんが、キャバ嬢風の女性や酔っ払いを殴るわけにはいかないのです。彼女の服から出ては言えないものが飛び出したり、酔っ払いの口から異臭を放つものが出てこないようにする配慮を逃げというのであれば、そういった批難は無視するのが一番です。

この程度の想像力も働かない相手と議論しても仕方がありません。目の前の議論にとらわれ過ぎて、議論とは何かという本質的な問題と向き合えない人たちとは、同じ立ち位置になる必要はありません。

資料を提示するということ

大事なことは先に用意できるものは先に用意しておくことだと思います。

特に歴史検証を行う場合は膨大な資料や仮説を予め用意することができます。何故ならこれらの問題は、今これから資料や仮説を提示しなければならないものではないからです。

今現在起こっていることについての解釈などは、実際に直ちにその場で仮説を組み立てる必要がある場合があります。

しかし、歴史検証には基本的にその必要性は必ずしもありません。予め用意していればいいのです。それを読まない相手がいるとすれば、それは相手の問題です。あなたに非はありません。できるだけ相手がアクセスしやすい場所にあらかじめリンクを貼っておけばいいのです。

相手がそのリンクを踏まずに、それらのコンテンツを全く読まない場合は、相手がこちら側の背景に全く興味がなかったという意味でしかありません。

読まずに批判だけする相手を客人のように相手にすることはありません。相手の背景を調べずに、目先の文章をパブロフの犬のように反射的に批判する相手は、あなたを理解しようとする心がそもそもないのであり、そんな相手を丁重にもてなさなくてもいいのです。

群衆心理

最後に群衆心理について見ていきたいと思います。一般的に人間は集団化すると、物事の理屈を簡単で分かりやすいものに求めます。

フランスの心理学者ギュスターヴ・ル・ボンが指摘するように、群衆は深い洞察や俯瞰的な視点を嫌います。このため、理解しやすい単純な理屈に簡単に飛びつくことになります。

彼らは目の前に分かりやすい悪魔と天使がいないと何も選択することができないので、テレビやネットメディアでその悪魔と天使を探して回ります。このため簡単に戦争プロパガンダに利用されてしまいます。

彼らは世界の複雑な現象について、できる限り一行の文章で理解したいと思っているかのように行動します。相手に対してそういった無意味な注文を付けた挙句に、彼ら群衆はどいつもこいつも馬鹿ばかりと嘆いていることでしょう。まさかそれが単に自分自身の脳内で起こっている、その時だけの、自分だけの解釈だとは、その時は思わないでしょう。

思慮深さのない相手と真面目に付き合う必要はありません。彼らはあなたが長い間調べ上げた情報を読みもせずに、見もせずに、一目見ただけで破壊しようとします。そういった相手を真面目に相手するだけ時間の無駄です。

あなた自身の心理学的分析のための被験者にでもするような感覚で相手をしていればそれだけで十分なのです。あなた自身に危害を加えようとする相手に何も親切にする必要はありません。

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最後に

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