【覚書】現在の日本の保守について

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今回は保守についての記事となります。

保守とは何かという議論は結構大変で、非常に細かな分類を行わなければならず、また相対的に論じなければならないので、かなり軽い感じで書き連ねていきます。

 

 

保守の定義

私は「真正保守」とか「真の保守」という概念を基本的には使用しません。そもそも「真正保守」とは、その使い方は決まって、自分の考え、自分の信念につけられた名前だからです。

したがって保守の真正性の議論はほとんど無意味であるというが結論となります。保守の真正性を提示するのであれば、彼自身の保守の定義をはっきりとさせなければならないわけですが、真正保守の議論をする人たちはそれなりに保守の定義にこだわっている部分があるという意味では、それなりの誠実さはあるとは思っています。

保守派が、何を保守するのかという点には、様々な要素が関係していきます。一つに歴史的、文化的、社会的観点、政治的観点などもそうですが、一方で生物学的、環境論的観点からも論じられる部分はあると思います。

保守とは何かという議論は非常に幅広く議論できるはずですが、実際の議論の多くは、特定の人々の政治的議論によって集約されます。

生物学的議論はもちろんとして、保守の歴史性や文化性すらも議論になることはありません。良し悪しはともかく、非常にテレビ的で短絡的な議論を、自称保守派の政治評論家が行い、視聴者がそれに賛成か反対かと、それだけが、現代日本の保守の議論となっています。

西欧保守主義

保守派の言論人の西部邁氏は、西欧の保守思想史を保守派の議論に持ち込もうとしましたが、この試みはおおむね、この国では失敗しました。

西欧の保守主義のルーツに関する議論は様々ありますが、基本的にはその最も重要なルーツの一つとして、フランス革命批判を行ったエドマンド・バークの名前が挙げられます。

西部邁氏のエドマンド・バーク論や西欧保守主義論が正しいかどうかはともかく、いずれにせよ、脈々と続く西欧の保守思想の歴史を議論に導入するというのは、当時の日本では非常に画期的でした。

しかし、逆の見方をすると、日本の保守派はそんな議論すらしていなかったという悲観的な見方もできます。

残念ながら、西部さんの試みはほとんど日本に響きませんでしたので、日本の保守論議はいまだにテレビ的なものに終始するというありさまといえるでしょう。

西欧保守主義の歴史というのは、多様で、煩雑としており、保守主義の正史というものは存在しているようには思いませんし、そのような正史が必要なようにも思いません。

西欧の保守主義も19世紀になると、ディズレーリに見られるように、バークの保守論がどこにいったのかという状態ですし、20世紀になると、ジャコバン主義者の末裔の一派である共産主義者が、新保守主義者として、保守主義者を名乗るようにすらなっています。

馬渕睦夫氏は保守思想の歴史の重要性を指摘されていますが、保守思想の歴史地図に広がったバラバラに散らばったパズルのピースをはめ込んでいく作業を行っていく、日本の保守派はほぼいませんし、これからも生まれてこないでしょう。

21世紀の保守議論

21世紀の初めに保守派が分裂した一つ事件に、アメリカで起こった9・11テロ後のアメリカの政策があります。

この時の保守派は分裂したというよりは、アメリカによるアフガニスタンイラク侵略を熱烈に支持する大多数の保守派に、それに西部邁氏ら少数派の保守派が反対したというものでした。

2010年代に入ると、いわゆる保守派の議論は、ほとんど嫌韓論と反中論が支配的になっていき、そのような議論の一部はテレビの評論番組などでも取り入れられていったのではないかと思います。

バラエティ番組で韓国や中国の批判をするのは自粛傾向にあったとおもいますが、政治系の番組では肯定的に受け入れられていたと思います。

言い換えますと、日本のメディアに一定の影響力を持ち、嫌韓論や反中論を日本で行うことによって、利益を得る勢力が、この流れの一部を作っていただろうということは想像するに難しくないでしょう。

日中韓が対立することを、電波塔を使って日本人に刷り込まれていたとしても不思議ではありません。

2010年代の保守の議論の多くも嫌韓・反中で、それこそが保守派のアイデンティティとなっていた部分はあったと思います。そのころ生まれたネトウヨという概念は、おおむね嫌韓反中派という意味合いを含んでいたのではないかと思います。

これらの保守運動に、宗主国の情報機関が関わっていなかったと考えるのはほとんど不可能だと個人的には思っています。

2020年代の自称保守派の現状

2020年に入ってもおおむね、日本の自称保守派の大多数は、9・11の頃にアフガニスタンイラク侵攻を賛成していた保守と同じ言論です。

言い換えますと、日本の保守派は、共和党民主党に紛れ込み、主流派を形成していったアメリカの新保守主義者、あるいはトロツキストの影響下のままと、言っても言い過ぎではないでしょう。アメリカ民主党はこれに新左翼の影響も強く入っています。

日本の保守政党から進歩主義政党までもが、新保守主義新左翼といった共産主義の影響下で議論しており、おおむねこの小さなカゴの中で羽をばたつかせています。

このような状況下で、起こったのが、コロナパンデミックであり、ロシアによるウクライナ侵攻であり、安倍晋三元総理の暗殺であるというのが、現在の日本の自称保守派が直面している問題なのだろうと思います。

コロナパンデミックやロシアによるウクライナ侵攻を、様々な国際機関や企業を使って大々的に宣伝した勢力の中心にあったのは、アメリカのロックフェラー財団や、スイスの世界経済フォーラムといった団体で、これらの団体がコロナパンデミックやロシアによるウクライナ侵攻に対して、中心的な言論形勢や、政策を決定しているというのは間違いないことでしょう。

18世紀末のヨーロッパの保守派は、イルミナティフリーメイソンといった秘密結社やジャコバン派専制的な政策を痛烈に批判しました。

しかし、21世紀の自称保守派と言えば、これらの秘密結社の末裔であるかのような、ロックフェラー財団世界経済フォーラムの諸政策に対して、奴隷のように従うか、彼らのポケットからこぼれ落ちたマネーに群がる物乞いのようにその尻についていくかしかないようです。定義次第ではもともと保守派でもなんでもなかったのかもしれません。

プーチンは何者か

プーチンをどのように解釈するのかというは、保守派とリベラル派の別を問わず、おおむね三つに分類できるのではないかと思います。

一つは西側の自由な社会に挑戦する独裁的な専制主義者、二つに、西側の支配階級に挑戦する自由と民族自決の闘士、そして三つに、西側と東側の対立を演出するための、彼らが用意した役者というものです。

日本人のプーチン解釈の多くが独裁者であり、次に反新保守主義・反ナチスの闘士ときて、最後に実は両者はグルであるという意見になると思います。

プーチンを独裁者と見做している人たちにとってみれば、少数派の保守派やリベラル派は陰謀論者に見えるでしょう。

プーチンを西側の権力者を打倒する英雄とみるのであれば、それ以外の意見の人は、西側の権力者に洗脳された愚か者に見えるでしょう。

最後にプーチンも西側の権力者と同じ陣営と見做している人たちからすれば、多数派に限らず少数派の意見も、どちらも騙されているという意見になるに違いありません。この立場の人は日本では少ないですが、海外では一定数いるように見受けられます。

これらのどれが正しいのかという議論は、部分的にはどれも正しく、部分的にはどれも間違っているという側面がありながら、それなりにおそらく三つのどれかには近いのでしょう。

歴史学的作業と心理操作

そのどれが正しいのかというためには、実際に歴史的な事実を詳細に積み上げていくという歴史学的な作業を行わなければならないという部分があると思います。

しかし、一方で、これらの歴史学的作業は、スイスの歴史学者のヤーコプ・ブルクハルトが指摘したように、歴史が、政治や宗教によって捻じ曲げられるというのは避けられそうにありません。

不幸にも、フランスの社会心理学者ル・ボンが見抜いたように、歴史学的作業を行ったとしても、メディアを使った印象操作の方が遥かに大衆を納得させることができるのです。ル・ボンの方法論を知り尽くした人間たち、例えばエドワード・バーネイズのような人たちにとって、これほど都合のよい世界の真実はありません。

世界の主流の報道機関の報道を見ても、大衆操作のメソッドが巧みに盛り込まれているというのは明らかですが、いわゆる大衆には残念ながらそれを見抜く能力も意志もありません。

ここでいう大衆というのは学問のない人たちという意味ではなく、高度な専門的な知識を有し、それに満足している人たちのことをいいます。これは私の言葉ではなく、スペインの哲学者ホセ・オルテガの考えです。

保守論議の不可能性

日本で保守の議論を行うことは非常に難しいものがあります。歴史的経緯も、生物学的・心理学的分析も、文化論も、いわゆるテレビの政治評論家たちの前では吹き飛んでしまいます。彼らがどこかしらの代理人なのかどうかは知りませんが、少なくとも、彼らの議論は、アメリカの理念に対する無批判な信仰と、アメリカに対する盲目的な追従しかありません。

バークも、ディズレーリも、ポドレツも、クリストルも、彼らにとっては、議論にまったく必要がないのです。

しかし大衆の前ではそれで充分です。歴史も、自然科学も、心理学も、日本の愛国者からは完全に吹き飛んでおり、アメリカを中心とする世界の支配者がメディアを通じて、戦争のために命を捧げよと言われれば、躊躇うことなく彼らのために自分の命を、愛する人の命を捧げるのが、現在の日本の自称保守派の愛国心であり、かつての労働者革命の愛国労働者と同じく、彼らの金銭的利益の代償として利用されるしかないようです。

ある意味で、思想の善悪はともかく、リベラルの方がそうしないことを望んでいるという意味で僅かながら利口と考えることも、もしかするとできるかもしれません。

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最後に

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