【忘れ去られたクリミアの歴史】クリミアにおけるユダヤ人自治

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今回はクリミアにおけるユダヤ自治の英語版Wikipediaの翻訳をします。翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれませんが、大目に見てください。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

 

 

クリミアにおけるユダヤ自治

Jewish autonomy in Crimea - Wikipedia

クリミアにおけるユダヤ自治は、1920年代から1930年代にかけてソヴィエト連邦で行われたクリミア半島におけるユダヤ人の自治区を作るプロジェクトである。ソ連共産党書記長にヨシフ・スターリンが就任し、極東ユダヤ自治州が創設された後、80以上のコルホーズ(訳注:農業集団化政策、建前上部分的個人所有を認めていた、農業に限らず漁業・農業などのコルホーズも存在した)が存在し、1944年にユダヤ人反ファシスト委員会がこの計画を再開しようとしたが、計画は断念された。

背景

クリミアには歴史的に多くのユダヤ人が住んでおり、その中には非ラビ派のユダヤ人であるクリミア・カライム人とクリムチャク人が含まれている。

19世紀初頭、ベッサラビア(訳注:現在のモルドヴァの地域)、ヘルソン(訳注:現在のヘルソン県)、ポドーリャ(訳注:現在の西ウクライナ)、タウリダ(訳注:現在の南ウクライナとクリミア地域)、エカテリノスラフ県(訳注:現在のドニプロペテロウシク・ドネツィク・ザポリージャ地域)にロシア帝国最初のユダヤ人農業植民地が出現し始めた。しかし、これらの入植地を拡大しようとする試みは、皇帝アレクサンドル2世の反対に遭い、1886年5月30日に反対のウカセに調印する。その後、ポグロム、ロシア内戦、1921〜22年のロシア飢饉、病気の蔓延などにより、これらの植民地の状況は悪化し、いくつかの植民地は破壊されるに至った。さらに、これらのコロニーに住む多くのユダヤ人は、大都市やアメリカなどの他国へ完全に移住することを選んだ。1926年には、ロシア内戦前に比べて入植地周辺のシュテットル(訳注:東欧の小規模のユダヤ人コミュニティ)の人口は半減していた。

農民化政策

1917年、アレクサンドル・ケレンスキー率いるロシア臨時政府が居住区を廃止したことで、多くのユダヤ人がロシア各地に移住することになった。十月革命とロシア内戦により、ロシアのユダヤ人の大部分は生業(小工作、貿易、金融など)を奪われた。

シオニスト組織は、1919年に将来のユダヤ人移住者のために農業労働の中心地を作る目的でクリミアで活動を開始した。ポグロムと難民の両方による人口減少は重要な問題であり、クリミアのユダヤ人人口は1921年の5万43人から1923年には4万5503人(ラビ派ユダヤ人3万9815人とカライム人5688人を含む)に減少していた。1922年から1924年にかけて、シオニストのヘハルツ運動はクリミアに4つの農業コミューンを設立し、300人が参加した。しかし、これらのコミューンは長くは続かず、1920年代後半にソ連当局によって清算された。

訳注:ヘハルツの初期の指導者はアメリカでは、後のイスラエル初代首相のデヴィッド・ベン=グリオン、第二代大統領イツハク・ベンツビ、ロシア側ではジョゼフ・トランペルドールがいる。ジョゼフ・トランペルドールは北イスラエルのテルハイの戦いで負傷し、死亡している。

これらの出来事は、1921年から22年にかけてのロシアの飢饉と相まって、ボルシェヴィキの指導者の間でユダヤ人の「農民化」の考えが広まるきっかけとなった。しかし、これを実現するためには、非ユダヤ人農民を動揺させないように、空いた土地にユダヤ人を再定住させる必要があった。

内戦の勝利後(あるいはそれ以前も)、ウラジーミル・レーニンは農民化政策の追求を始めた。民族委員会のユダヤ人委員会(イェヴコム)の第一の目標は、ユダヤ人入植に適した地域を見つけることであった。この取り組みを組織するために、1924年8月、ピョートル・スミドヴィッチのもとに「労働者ユダヤ人の土地への定住委員会」(コムゼット)が設立された。同年12月には、ユーリ・ラリンの指揮の下、同様の名称の「労働者ユダヤ人土地定着協会」(オゼット)が設立された。

南部計画

クリミアへのユダヤ人入植を提案したのは、アメリユダヤ人合同配給委員会(通称ジョイント)の理事、ジョセフ・A・ローゼンだと考えられている。しかし、正式には、ジャーナリストのエイブラム・ブラギン(訳注:ソヴィエトのシオニストユダヤ人)と当時の民族委員会副委員長のグリゴリー・ブロイドがこの計画を立案したのである。1923年12月、政治局の決定により、アレクサンドル・チュルパを中心とする特別委員会が設立された。これを支持した政治家には、ニコライ・ブハーリン、ゲオルギー・チチェリン、ミハイル・カリーニン、レフ・カメネフ、レオン・トロツキーがいた。

1924年7月、ジョイントはこのプロジェクトを支援するために、アグロジョイントと呼ばれる組織を設立した。ローゼンは、ソ連におけるシオニズムユダヤ教ユダヤ文化への迫害を終わらせることを条件に、1500万ドルを約束した。同年12月には、ソ連政府も同意した。この協定は、1927年12月に3年間、1929年2月に1953年までの2回、更新された。クリミアへのユダヤ人入植を支援する目的で、ソ連政府に900万ドルが17年間、年利5%で提供された。

ロシア連邦農業人民委員会のアレクサンドル・ペトロヴィッチスミルノフは、この計画は非ユダヤ人労働者に不公平であると宣言し、ウクライナ連邦司法人民委員会のミコラ・スクリプニクとウクライナ共産党書記長のエマヌエル・クヴィリングもこの意見に同意している。クリミアASSRのイブライモフ・ヴェリ率いる地方政府も、代わりにクリミアタタール人の農民に土地を再分配すべきであり、ユダヤ人移民の受け入れよりもトルコに逃れたクリミアタタール人の送還を優先すべきであると主張して、この事業に断固として反対していた。イブライモフは、中央委員会がクリミアASSRの土地再分配に関する指示に従わないことを指摘した決議に反対し、「土地管理の欠点については、クリミアにおける規範は正しく、科学的に立証されていると思うが、半島のユダヤ人移住のためにのみ修正する必要がある」と述べている。しかし、1928年にイブライモフが処刑されると、政府内の反対運動は収束した。

1930年10月13日、総人口およそ3万人、そのうちおよそ35%がユダヤ人であるフレイドルフ・ユダヤ自治地区が設立された。続いて1935年には、ユダヤ人人口約63.5%のラリンドルフ地区が設立された。

しかし、南部計画は1928年に別のユダヤ自治区計画であるビロビジャン・ユダヤ自治区(現ユダヤ自治州)に簒奪されたのである。ロシアの歴史家ゲンナジー・コスティルチェンコによれば、クリミアよりビロビジャンの方が優先されたのは、ユダヤ人が優先されることでユダヤ人に恨みを持つウクライナ南部の土地を持たない農民を刺激しないためであったとされる。ジョイントからの援助を受け続ける必要があったため、公式には中止されなかったが、1930年に南部計画は頂点に達した。

ユダヤファシスト委員会の提案

南部計画は第二次世界大戦前に事実上消滅していたが、ユダヤ人反ファシスト委員会(JAC)はそれを忘れてはいなかった。コルティルチェンコによると、1943年夏、ソロモン・ミホエルスとイツィク・フェッファーがアメリカを旅行した際、ヴャチェスラフ・モロトフから、当時ナチスドイツの占領下にあったクリミア半島ソ連に奪還された後にユダヤ人の再定住に対する物資支援を交渉する許可を得たという。

1944年2月15日、ミホエルス、フェッファー、シャクネ・エプシュテインはソロモン・ロゾフスキーが編集した手紙の中で、ソ連の指導者ヨシフ・スターリンクリミア半島ユダヤ人ソヴィエト社会主義共和国を作るよう求める指導書を送っている。彼らは、ベラルーシウクライナなど、ユダヤ人がホロコーストの一環として大量に虐殺された歴史的に居住していた地域にユダヤ人が戻ることを望まないこと、また、民族共和国の上層部におけるユダヤ人知識層の衰退に直面し、新しい反ユダヤ主義の発生を防止するためには、その保存が必要であると主張したのである。同時に、ビロビジャンの既存のユダヤ自治州は、「主要なユダヤ人労働者集団」から著しく離れていることを理由にユダヤ人反ファシスト委員会によって拒否された。しかし、ユダヤ人反ファシスト委員会の懇願にもかかわらず、この提案は最終的に中央委員会によって拒否された。

クリミアにおけるユダヤ自治のプロジェクトは、1948年に最終的に消滅した。ロゾフスキーの裁判でも、最終的に「詩人殺しの夜」(訳注:モスクワのルビャンカ刑務所で13人のソ連ユダヤ人が処刑された日で、四人のユダヤ人詩人を含め、ロゾフスキーやアメリ共産党のメンバーやシオニストなどが処刑された)につながった裁判でも、被告たちは「クリミアにユダヤ人国家を建設するというアメリカ資本家界の計画をいかに実現するかについて共謀した」罪で告発された。1952年10月、スターリン存命中の最後の中央委員会総会で、スターリンは、ユダヤ人反ファシスト委員会計画を支持したモロトフを非難し、「モロトフは我々の大義に献身した人間である。もし、そうするよう求められたら、彼は躊躇なく自分の命を党のために捧げるに違いない。しかし、彼の不甲斐ない行いを無視することはできない。クリミアをユダヤ人に譲渡するというモロトフの提案に何の価値があるのか?これはモロトフ同志の最も重大な政治的過ちである。同志モロトフは、何を根拠にこのような提案をしたのでしょうか?ビロビジャンのユダヤ自治がある。それで十分ではないですか?この共和国を発展させよう。モロトフ同志は、わがソヴィエト・クリミアに対するユダヤ人の不法な要求のための弁護士であってはならないのだ」。

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最後に

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