【知ってはいけないドイツの共産主義国家】ブレーメン・ソヴィエト共和国

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今回はブレーメン・ソヴィエト共和国の英語版Wikipediaの翻訳をします。翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれませんが、大目に見てください。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

 

 

序文

ドイツ革命の中で、ドイツにはいくつかのソヴィエト共和国が成立しました。バイエルン・ソヴィエト共和国、ブレーメン・ソヴィエト共和国、サクソン・ソヴィエト共和国、ヴュルツブルク・ソヴィエト共和国、アルザス・ロレーヌ・ソヴィエト共和国がそれにあたります。今回はその中のブレーメン・ソヴィエト共和国について見ていきたいと思います。

ブレーメン・ソヴィエト共和国

Bremen Soviet Republic - Wikipedia

ブレーメン・ソヴィエト共和国は、1919年に25日間だけ存在した未承認の短命国家である。ドイツのブレーメン州からなる。第一次世界大戦ドイツ帝国が敗北した後、ドイツ革命の中で設立された。

沿革

前兆

1918年11月9日に皇帝が退位した後、ドイツは不安定な状態に陥った。ドイツ社会民主党SPD)政権とスパルタクス同盟は、ともにドイツ共和国(後者は「自由社会主義共和国」を目指す)の樹立を宣言した。これが内戦に発展し、1918〜19年のドイツ革命では、対立する両者が政権を争うことになった。

ブレーメンでは、ソヴィエト国家誕生以前から急進的な労働運動が大きな支持を得ており(重工業の雇用水準が高かったため)、ドイツ社会民主党が選挙で優位に立っていた(この特徴は現在も続いている)。その結果、内戦が勃発すると、ブレーメンは左派のスパルタクス同盟に強く同調するようになった。ブレーメンの反乱は、ドイツ皇帝退位(1918年11月6日)の直前に、労働者評議会が設立され選出されたことから始まった。この評議会はブレーメン市庁舎に置かれ、ベルリンに新たに設立されたドイツ社会民主党主導のワイマール共和国から独立して、この小さな国家の事務を管理した。

設立の経緯

1月10日、労働者評議会は共和国を宣言し、市内に人民代表ソヴィエトを設立した。ヨハン・クニーフを筆頭とする教師が指導者の大半を占め、多くのレーニン主義理論の支持を表明した。人民代表大会は、労働者評議会に代わって、市庁舎内に置かれた。その成立後、評議会は同一賃金の要求など、多くの改革的な法案を可決した。長期的な目的は、実現されなかったが、プロレタリアート独裁を確立することによってブレーメンの経済を国有化することであった。

敗戦

1919年初頭には、ワイマール共和国は内戦で国家に対抗できるほど強い立場を保っていた。その結果、フリードリヒ・エーベルトブレーメンにフライコーア(訳注:またはフライコール、ドイツ義勇軍ともいい、ドイツの志願兵部隊・民兵組織)を送り込み、共和国の転覆に成功した。バイエルン・ソヴィエト共和国とは異なり、ブレーメンの労働者評議会の弾圧は、80人以上(処刑された指導者を含む)の命を犠牲にした。ブレーメン・ソヴィエトは、州の地理的特性(ワイマール・ドイツの支配地域に囲まれていたため、スパルタカス同盟からの支援を受けることができなかった)により、すぐに崩壊した。ブレーメン市は2月4日に陥落し、ブレーマーハーフェンは2月8日/9日に敗れるまで持ちこたえた。

政府

人民代表ソヴィエトは立法府の役割を担い、ブレーメン急進左派3名、アルフレッド・ヘンケ率いるドイツ独立社会民主党3名、独立軍人3名の計9名で構成された。ドイツ国共産主義者の一員であったヨハン・クニーフは、人民委員を務め、共和国において大きな影響力を持った。人民委員会は、1918年11月に設立された労働者評議会を母体としており、同様のメンバー構成であった。

感想

ブレーメン・ソヴィエト共和国のメンバーは、バイエルン・ソヴィエト共和国やスパルタクス団とは異なり主要メンバーにユダヤ人が参加しているようには見えません。カール・ラデックやローザ・ルクセンブルグらとの接触はあったようには思いますが、おそらくですが、ドイツ人が中心だったのではないかと思います。

国家がインターナショナルであったようですので、インターナショナル運動との関係性があるように思います。ロシアで誕生したコミンテルン第三インターナショナル)はブレーメン・ソヴィエト共和国が建国・崩壊する期間には存在していないため、考えられることはブレーメン・ソヴィエト共和国は第二インターナショナルの支援を受けていたのではないかと思います。

ドイツ社会民主党もしくはドイツ独立社会民主党第二インターナショナルの支援を受けていたとしてもおかしくありませんが、特に独立社会民主党はその党のロゴを見てもフリーメイソンと関りがあっただろうことは想像するに難しくありません。

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最後に

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