マックス・ピカート『沈黙の世界』より

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こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回はマックス・ピカート『沈黙の世界』からの引用とそれについての個人的な考えをお話ししたいと思います。記事中には私個人の偏見や認識の誤りも含まれていると思います。その点のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

 

 

序文

マックス・ピカートの著作を知ったのはもうずいぶん昔の話ですが、言葉と沈黙の関係性についての彼の表現から考えさせられるものがありました。私には堕罪に対する思い入れは全くといってよいほどありませんので、彼の言わんとすることも必ずしも納得しているわけではありませんが、前半部分の表現は自分の中で共感するものがあります。

引用文

沈黙は人間の心のなかにそこはかとない哀愁(かなしみ)を喚びおこす。何故なら、沈黙は、言葉による罪への転落がまだおこなわれていなかったあの状態を思いおこさせるからである。沈黙は堕罪以前のあの状態への郷愁を、人間の心のうちにかきたてるのだ。同時にまた、沈黙は人間を不安にする。何故なら、人間は沈黙のなかにあるとき、何時なんどきまた言葉があらわれて、言葉とともに罪への最初の転落があらためて生ずるかも知れないという不安を覚えるからである。詩人が大胆不敵な人間と見做されるのも他でもない、彼は――というのは、まさに言葉と交渉するのを事としているこの詩人は――人間が言葉のために罪に堕ちたことを忘れているようにみえるからである。しかし、われわれはまた詩人に心を惹かれる。何故なら、詩人においては言葉がまだ根源性を保有しているからだ。詩人の言葉は人々にとり、あの最初の言葉—―それによって彼が人間となったあの最初の言葉—―のように思われる。そして、そのことが人間に大きな悦びをあたえるのである。

 

マックス・ピカート『沈黙の世界』p45-46

感想

言葉を発したことによって、人は予想を超えた罪を犯してしまう存在なのかもしれないし、そしてこれから否応もなく言葉を発する必要性があるために、かつて犯した罪と同じような罪を再度犯すに違いないという不安とともに人は言葉を紡がなければならないといえるかもしれません。

まだ、罪に陥る前の沈黙の中の無垢な自己を懐かしむ自分と罪への転落を犯し、さらにこれからも犯していくだろう人間の性を、おそらく人間は克服できないのでしょう。

彼の『われわれ自身のなかのヒトラー』という著作にも、おそらくこのような感覚が含まれており、人間誰しもが、常に罪を前提とした存在者であるという点を指摘しているように感じました。

とは言え、だからと言って、人間は一般的に、まったく助けようもない、惨めな存在者というほどの罪人ではないに違いないのであり、罪とその超克との間で、生きていく必要があると思います。

おそらく私たちは時に沈黙による救済を必要としているのかもしれませんし、また同時に、沈黙から足を踏み出す勇気が必要な場合もあるに違いありません。

ピカートは言葉に真理を求め、沈黙はより消極的なものであると指摘しました。しかし、一方で言葉は同時に虚偽性を含んでおり、真理性と虚偽性という両面性を常に帯びていると感じます。

否応もなく、口からこぼれる虚偽性は、同時に一方では真実を語っているという側面もあるかもしれません。

私たちの口からこぼれる虚偽性はそれでも気に病むほどの罪ではないのかもしれませんし、一方で、取り返しのつかない罪である可能性もあるかもしれません。しかし、一方で、沈黙の中で真実を包み隠すこともまた取り返しのつかない罪である可能性もあるかもしれませんし、同時に時として人は沈黙の救済を必要としているのかもしれません。

その場その場の状況のなかで臨機応変に対応するのは難しいでものがありますが、言葉と沈黙のはざまで生きる人間として、言葉と沈黙の関係性について思い煩うことも人間としての宿命なのかもしれません。

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最後に

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