科学と宗教と選ばれた民

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今回は宗教と科学、選民思想についての個人的な考えをお話ししたいと思います。記事中には私個人の偏見や認識の誤りも含まれていると思います。その点のご理解のほど、よろしくお願いいたします。

 

 

創世記

『創世記』は旧約聖書の一番最初のユダヤ教キリスト教聖典で、50の章で構成されています。1章の天地創造の話や、2章と3章のアダムとイヴがエデンの園から追放される話、4章のカインがアベルを殺害した話、6章から9章までのノアの箱舟の話、11章のバベルの塔の話があり、12章からはアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの四世代による物語と続きます。

旧約聖書では、神が天地を想像してから人を作るまでに、旧約聖書の50章あるうちの1章だけで達成しています。この間、神が天地を想像してから、7日目に神が休息するまで、たった6日間で人類が誕生していることがわかります。

科学的な事実

現代の科学の進歩により、宇宙が誕生したのはおよそ138億2000万年前と推定されています。

1912年、アメリカの天文学者ヴェスト・スライファーは渦巻銀河のスペクトル線が赤色側にずれていること、赤方偏移を発見しました。1922年にはロシアの物理学者アレクサンドル・フリードマンは、アインシュタイン方程式からフリードマン方程式を導き出し、膨張する宇宙のアイデアを導入しました。1929年にはエドウィン・ハッブルは地球からの距離と後退速度の相関関係を発見しました。この関係は今日ハッブルの法則として知られています。

宇宙がどのように誕生したのかという疑問の答えは、このようなビッグバン理論によって説明されています。

私たち人類が生きているこの世界がどのように誕生したのか、そしてどのように現在のようにいたったのか、という疑問を多くの人が持っているかもしれません。

人類の長い歴史の中でも、今日に至るまで多くの人々を悩ませていた問題だったのかもしれません。このような長い歴史の中で、過去の宇宙論として『創世記』のみに焦点を当てて、現在の宇宙論と比較するのは公平ではないかもしれません。

日本の『古事記』や『日本書紀』の中でも、『創世記』とは異なる天地創造の物語が語られています。ヒンドゥー教聖典の一つである『リグ・ヴェーダ』の宇宙論では、カルパと呼ばれる43億2000万年という時間がブラフマーの一日に相当し、延々と繰り返される宇宙論が示されています。

古代よりアリストテレスプトレマイオスに見られるように、地球の周りを太陽や月、星々が回っているという天動説が一般的でしたが、紀元前3世紀にはサモスのアリスタルコスが太陽を中心とする宇宙論を展開し、1543年にはポーランド天文学者ニコラウス・コペルニクスが『天体の回転について』で地動説を提唱しました。

また観測という側面では、ペルシア人天文学者、アブドゥル・ラフマーン・スーフィーが、964年にアンドロメダ銀河を観測しています。アンドロメダ銀河は天の川銀河以外で地球からはじめて観測されて銀河とされています。

人類の長い歴史の中で、多くの人々が観察し、仮説を立て続けてきたことにより発展してきた現代の宇宙論や世界観が、まったく誤りのない正しい仮説だとは私自身思いません。しかし一方で、このような長い歴史の中で蓄積されてきた人類の英知のすべてを否定して、古代の宇宙論や世界論こそが正しいと見なすことには全く合意できません。

私は旧約聖書の『創世記』に見られる天地創造の物語を興味深いとは思いながらも正しいとは思っていません。私のような考えの人は、日本に限らず世界中でも多く見られると思います。このため、ユダヤ教キリスト教を信じている人々は私のような立場の人間を説得するための新しい仮説を見出す必要性が生まれたと考えることができると思います。

このような考えを元に誕生した仮説の一つにはインテリジェント・デザイン説があります。

他にもこれまでユダヤ教徒キリスト教徒から現代科学の観点から見ると相当に無理のある仮説を見聞きしてきましたが、どんなに科学が発展しようとも、宗教的な観点から様々な方法で科学を偽装したような新しい仮説が生まれてくることは容易に想像できます。

地球の誕生

初期の宇宙がどういったものだったのか、また太陽系はどのように形成されたのかは別の機会に譲るとして、私たちが生活しているこの地球がどのように形成されたのかという議論をここでは行いたいと思います。

地球は今から45億4000万年前に太陽系星雲からの降着によって誕生したと考えられています。塵やデブリと呼ばれる大きな塊が少しずつ衝突と結合を繰り返し、次第に幾つかの天体が、現在の地球軌道付近に形成されていったと考えられています。これらの天体が更に互いに結合して、地球軌道上に原始地球が誕生したと考えられています。

地球には月という衛星がありますが、この頃に原始地球に火星と同じくらいの大きさのテイアという天体が衝突したことで、現在の地球と月が形成されたと考えられています。これをジャイアント・インパクト仮説といいますが、今日広く支持されている仮説と言っていいと思います。

原始地球にテイアが衝突したときの衝撃は、恐竜が絶滅した時に地球に衝突した隕石の約1億倍と考えられています。

生命の誕生

地球上に生命が誕生した時代は正確には解っていませんが、生命の痕跡が確認される最古のものはシアノバクテリアが浅い水中で形成した微生物のマットであるストロマトライトの化石です。西オーストラリアで発見された34億8000万年前の砂岩から発見されたストロマトライトによりシアノバクテリアが海中に酸素を供給していたと考えられます。

シアノバクテリアが海中に沢山の酸素を供給したことにより、海中に溶けていた鉄などが、25億年前から19億年前にかけて海中の鉄分がほとんどすべて酸化したと言われています。この時代の堆積岩は赤色の縞状鉄鉱層を形成しています。

初期の生命はより単純な構造の細菌や古細菌でしたが、やがてミトコンドリア葉緑体の祖先にあたる生物が宿主となる生物と共生関係を結ぶことにより真核生物が誕生しました。

真核生物はコロニーを形成し、コロニーの外側の細胞と内側の細胞で異なる役割を担うという分業が進んでいき、これがやがて真核生物が多細胞生物へと発展させました。

やがて地球は二度のスノーボールアースと呼ばれる氷河期に見舞われましたが、この氷河期が明けたエディアカラ紀に多細胞生物が急速に発達し、更に次のカンブリア紀には多細胞生物の爆発的な進化が起こりました。

カンブリア紀はおよそ5億年前の話で、現在の哺乳類が誕生したのはおよそ2億2500万年前と言われています。

人類の誕生

最も古い霊長類の一種として、5500万年前に北米とヨーロッパに生息していたとされるプレシアダピスの名前が挙げられます。人類の祖先はおよそ1800万年前から1200万年前にテナガザルの系統から分岐し、更におよそ1200万年前にオランウータンの系統から分岐しました。およそ1000万年まえにゴリラ族から分岐し、およそ700万年前にチンパンジー亜族と分岐したと考えられています。そこから直立歩行をし、道具を使い、言葉を話す人間が誕生したと考えられるわけですが、ここまでの話で旧約聖書の『創世記』と部分的に共通点が見いだせるところもあるかもしれませんが、一方で大きな違いを見つけることができます。

聖書との違い

このような違いから『旧約聖書』や『旧約聖書』を前提とした『新約聖書』を批判して互いの共通認識を模索したとしても、もしかすると互いに平行線をたどることになるかもしれません。しかしながら、それでもある程度聖書に対する批判を行わなければならないと、私自身は感じています。

エデンの園も、アダムもイヴも、彼らを惑わしたヘビも実在しません。カインもアベルも実在しません。もちろんこれらの話に類似した出来事が全くなかったかと問われればそれを否定する材料を私は持っていませんが、同時に肯定する材料もないのです。これが私の意見ですし、仮にこれらの話が寓話として意味があるとしても、実在性は否定しなければなりません。

この世界には選ばれた民は存在しない

私が聖書を批判する目的の一つには選民思想を批判する必要性を感じているという部分があります。そのためにはできる限り偏見を排除し、科学的な見地から批判する必要性があります。ユダヤ教徒キリスト教徒にみられるユダヤ人は神に選ばれた民であるという主張には聖書以外に根拠を見つけられません。

しばしばアシュケナージユダヤ人は偽物のユダヤ人であり、彼らはハザール人であり、本物のユダヤ人は別に存在するという主張を目にし、耳にします。このような主張を重要視するということは、批判している対象であるアシュケナージユダヤ人と同じく選民思想を重要視していると考えることができます。

私はアシュケナージユダヤ人が本物のユダヤ人であろうが、そうでなかろうが、神に選ばれた民などというものは存在しないのであり、古代のユダヤ人の願望がこのような選民思想を生み出したとしか考えていません。

しばしば日猶同祖論と呼ばれるものが、様々な場所で紹介されていますが、実際に日本人の起源の一部がユダヤ人である可能性を私自身完全に否定する材料を持っていませんが、日本人の起源の一部または全体がユダヤ人であろうと、なかろうと、この世界には選ばれた民は存在しないという前提に従う以上、この事が殊更特別な意味を持つとは考えることができないのです。

一方で、多くの宗教や文化には、このような独自の世界観があるのであり、このような宗教や文化の独自性は認められるべきだと考えることもできるかもしれません。実際に宗教や文化の違いは多様性として認められるべきものが多くあると思います。

私には他の文化の人々に対して伝統的な民族衣装を着るべきではないと主張するだけの理屈や願望を一つも持ち合わせていません。しかしながら、選民思想は認められないのです。

この点については別の機会に議論を深めたいと思いますが、いずれにせよ、私が宗教や科学について触れる上で避けては通りたくない問題の一つとして選民思想があるという点を告白しなければならないと感じています。これはユダヤ教批判であり、同時にキリスト教批判でもあると言わなければならないかもしれません。

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最後に

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世界が一日もはやく呪われた微睡の日常から目が覚めますように。