【知ってはいけない中国人のためのコミンテルン組織】モスクワ中山大学

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モスクワ中山大学

Moscow Sun Yat-sen University - Wikipedia

モスクワ孫文大学、正式には孫文中国共産党大学は、1925年から1930年まで、当時のソヴィエト連邦であるロシアのモスクワ市で運営されていたコミンテルンの学校である。国民党と中国共産党の革命家の合宿所であり、「東方共産大学」から分離したものである。コミンテルンの国際連絡部(ロシア語の頭文字「OMS」)との関係は不明である。

孫文大学は当初、すべて政府主義教育モデル(中山大學模式)を採用していた。

起源

1923年、国民党の創始者である孫文は、中国共産党ソ連に政治的な働きかけを行った。孫は、国民党がより多くの中国革命家を育成する必要があると考えていた。

孫文大学は、十月革命の8周年にあたる1925年11月7日に正式に授業を開始した。孫文大学は、約100人の中国人学生が在籍していた東方勤労者共産大学から中国語学科を分離して設立された。大学名は、中国革命への貢献を称えて、孫の名を冠した。

場所はモスクワの古くて美しい地区にあるヴォルホンカ通り16番で、クレムリンから歩いて30分ほどのところにある。帝政ロシア時代には、19世紀初頭に建てられた大学の本館は、モスクワの第一地方高等学校であった。

中国に派遣されたコミンテルンの顧問、アダム・リンドナー(1902-58、通称シャ・ダーリン)とミハイル・ボロディンが、最初の学生の入学を指導した。学生たちは、中共と国民党の両党員から選ばれたエリートであった。この大学の主な使命は、学生にマルクス主義レーニン主義を教え、ボリシェヴィキの資格を持った大衆運動のための幹部を養成することであった。

コースワーク

講師の多くはソ連から来た人たちである。その中には、初代学長のカール・ラデックのような古いボリシェヴィキもいた。学生たちは、有名な共産主義革命家や学者もいれば、学歴はなくても共産主義運動の経験が豊富な者もいるなど、さまざまな階層や経歴を持っていた。大学では、これらの学生を学歴や経験に応じてクラス分けした。


大学の授業では、マルクス主義レーニン主義の基礎理論を中心に学んだ。また、動員や宣伝の方法、理論的・実践的な軍事教練なども学んだ。

授業以外にも、国際共産主義運動や中国革命について、コミンテルンソ連中国共産党の著名なメンバーによる講演が定期的に行われていた。スターリントロツキー、張国燾、向忠発などの著名人が、国際共産主義運動や中国革命について講演した。

2年間という短い期間ではあったが、この大学は教育者に大きな影響を与えた。28ボルシェビキ、左権、伍修権、He Zhonghan、Deng Wenyi、冀朝鼎、そして後に中華人民共和国の指導者となる鄧小平、後に台湾で中華民国の総統となる蒋経国など、ここで学んだ多くの人々が中国で指導的な役割を果たしたのである。

政治的変化と閉鎖

1927年、中共と国民党の同盟が破棄されると、国民党の学生たちは中国に送り返された。スターリントロツキーの権力闘争がピークに達すると、ラデックはクビにされ、大学のキャンパスに留まらないほどの野心家である副官のパヴェル・ミフが後任に就いた。ミフ自身は、コミンテルンの極東部の副部長となり、中共の重要な決定に重要な役割を果たした。28人のボリシェヴィキ中共の要職に就いていたこともあり、ミフとこの大学は中国の近代史において大きな役割を果たした。最後の学長はウラジーミル・ヴェーゲルである。

国民党との同盟が失敗したため、大学は1930年代半ばに閉鎖された。

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