リベラルを論じることについて

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こんにちは、ご訪問ありがとうございます。これまで何度か保守について論じてきましたが、今回はリベラルに焦点を当てた議論をしたいと思います。

 

 

保守言論の潮流

保守とは何かを論じるとき、保守言論の起源とその支持者の関係を分析・考察することはリベラルのそれを分析・考察することより容易なように思われます。

保守と言いますと、日本国内と、海外で考え方は幾分違いがあるように思いますが、基本的には従来のその国の伝統を重視する伝統主義と、その国の今日の右派政党の政治理論やスタンス、そして近代保守思想を歴史的な経緯から捉える保守主義と、最低でも三つの立ち位置を論じる必要があります。

保守主義でいいますと、例えばエドマンド・バークや、更に時代を下った新自由主義新保守主義についても考える必要があります。

ここで指摘したいのは、保守言論を考えるとき、その考察範囲はリベラルのそれよりも狭くなると感じます。自由主義の父とされるジョン・ロックは近代保守主義の父とされるエドマンド・バークよりも古い時代の人物です。自由主義を論じるときは、更にホッブズモンテスキューやイギリスの自由放任主義についても言及しなければなりません。

伝統主義という観点で見れば、人類の古い伝統などを論じる必要がありますが、伝統を論じるとき、ほとんど思想家について言及する必要性はありません。一言で言ってしまえば、保守と呼ばれる言論はリベラルと呼ばれる言論を論じるよりも、その考察範囲が狭く感じられます。

リベラルについて論じること

現代のリベラルを論じるにあたって、先ほど挙げたジョン・ロックモンテスキュー、更にアダム・スミスベンサムなど、保守よりも古い時代の思想家などについても論じる必要があります。しかし一方で、現代のリベラルが彼らの思想を厳密に追っているかといえばそうでもありません。自由主義の思想家を辿ったところで現代のリベラル派の行動原理との一致点を見出すことは難しいのではないかと思われます。

単に現代リベラルを説明するためにこれらの思想家について論じることの多くは徒労に終わってしまうと言えば言い過ぎかもしれませんが、現代のリベラル派は、古典的な自由主義の思想を、その最も基本な原理・原則に従っているとはいえ、ほとんど負っていないようには感じます。

新自由主義者として論じられるフリードリッヒ・ハイエクは、アメリカのリベラルをヨーロッパのリベラルとは異なるものと論じましたが、アメリカにおけるリベラル、あるいはそこから世界に拡がっていったリベラル思想は、マルクス主義社会主義などと異なるのは当然としても、必ずしも現代のリベラルがこれらの思想の影響を受けていないと言えないでしょう。

アメリカでも、ヨーロッパの多くの国と同じように、かつては社会党共産党が今よりも活発に活動していた時代がありました。これらの活動家が、その後、アメリカのリベラル政党に合流していきました。

また、『過激派のルール』の著者としても知られるユダヤ人活動家のソウル・アリンスキーのような過激な左派もバラク・オバマヒラリー・クリントンに多大な影響を与えているように、むしろ、新時代の過激派の影響の方が、古典的な自由主義者が今日のアメリカのリベラル政党、民主党の方向性を決定づけるのに大きな意味をもっているとすら感じられます。

古典的な自由主義者の影響は実際は保守言論にも多大な影響を与えているが故に、今日のリベラルと保守を分かつ存在として、古い自由主義者を持ち込むのはやはり無理があると感じます。

リベラルをリベラルたらしめるものは何か

新保守主義者を新保守主義たらしめているもの、あるいは新自由主義者新自由主義者たらしめているものを論じるとき、学者やジャーナリスト・活動家に焦点を当てる必要がありましたが、リベラルについてそういった特定の人物を見出すのは難しいと思います。新保守主義者のノーマン・ポドレツや、新自由主義者ミルトン・フリードマンといった代表者が、リベラルから見出せるかといえば、そうではないように思われます。

むしろ、リベラルを論じるとき、いわば、その政策や基本原則といったものから現代のリベラルの特徴を見出すほうが解りやすいのでしょう。

例えば、ポリティカル・コレクトネスやキャンセル・カルチャーあるいはLGBTなど、リベラルを論じる上では、リベラル派が生み出したこういった基本原則や基本原理、基本概念を元に論じなければなりません。

むしろこのような概念をどういった組織や人が生み出してきたのかということを探索していく必要があるのでしょう。正直、保守言論(仮に新保守主義新自由主義を保守と呼ぶのであればですが)よりもずっと特定個人の顔が見えません。

日本のリベラルと保守

リベラルは基本的には伝統主義には重きを置きませんので、ある意味で国外のリベラルとの大きな違いが日本のリベラルにあるかといえば疑問です。ある意味で、海外のリベラルの考え方を範としているのが日本のリベラルであり、日本のリベラルに独自性があるとは考えにくいと思います。

一方で日本の保守は日本的な伝統主義と日本的な右派政党の政策や理念から影響を受けていますので、日本のリベラルよりは、日本的な独自性を持っていると考えることもできるでしょう。もちろん、ここでは良し悪しの話をしているわけではありません。

リベラルのルーツを辿ること

正直、私にとっては、保守や新自由主義新保守主義マルクス主義などと異なり、そのバックボーンとなっている人物に焦点を当てにくいリベラルは、ほかのそれと比べるとやや特殊な価値観のように感じられます。

もちろん、いわゆるリベラルはアメリカでも日本でもマルクス主義あるいは革命思想の影響も受けていますので、これまで私が指摘してきたように新自由主義新保守主義マルクス主義と同じく国家解体を積極的に行おうとする傾向があります。

日本の自称リベラル派はマルクス主義者顔負けに、日本の伝統主義や国体に対して、あるいは様々な諸組織に対してボイコット運動を行っているのを見ると、もはやほとんど、古典的な自由主義者も、現代の洗練された自由主義者も登場する出番はほとんどないのかもしれません。繰り返しになりますが、日本と海外のリベラルにはほとんど違いを見出せませんので、アメリカでもヨーロッパでも同じような傾向があるように見受けられます。

もはや私は、これまで述べてきたように新保守主義も、新自由主義も、さらに今回述べたようにリベラルも、あまりにもマルクス主義的な傾向が強すぎるために、共産主義の巨大化した支流としてしかとらえていませんが、いずれにせよ、これから、リベラル派がキャンペーン運動のように用いている概念や基本原則などのルーツについては辿っていく必要性は感じています。

最後に

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