百年戦争

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ここでは百年戦争について見ていきたいと思います。ジャンヌ・ダルクの協力者の1人ジル・ド・レが錬金術や黒魔術に傾倒していく一連の出来事の前に起こったイギリスとフランス間の大戦争について理解を深めたいと思い調べてみました。

 

 

百年戦争のはじまり

フランスのカペー朝は987年から1328年まで続きましたが、12代のルイ10世が亡くなると、息子のジャン1世、ルイ10世の弟のフィリップ5世、シャルル4世と全て短命で終わり、カペー朝は断絶しました。

このためルイ10世、フィリップ5世、シャルル4世の父親の弟であるヴァロワ伯の息子だったフィリップ6世が即位し、ヴァロワ朝が誕生しました。

フィリップ6世は、イングランドスコットランドが抗争中であったため、フランスからイギリス勢力を一掃することを目論み、1337年にギュイエンヌ公領を没収することを宣言しました。フランス南西部のギュイエンヌ公は1188年よりイングランド王が兼ねており、これに反発したエドワード3世はフランスの王位継承権を主張し、1339年に北フランスに侵攻しました。

これが百年戦争の始まりで、百年戦争は1337年のギュイエンヌ公領の没収から始まり、最後の戦いとなったカスティヨンの戦いがあった1453年までの116年間の戦争のことをいいます。

百年戦争の三つのフェイズ

百年戦争の三つの段階に分かれており、それぞれ、エドワードのフェイズ(1337~1360)、シャルルのフェイズ(1369~1389)、ランカスターのフェイズ(1415~1453)に分かれます。また百年戦争が起こった期間にブルターニュ継承戦争(1341~1365)が起こり、この戦争でもイギリスとフランスが争っています。ブルターニュ戦争はエドワードのフェイズと概ね重なります。百年戦争は戦場はフランスであり、最終的に百年戦争によってイングランドはフランスの全ての領地を失いました。

エドワードのフェイズ

百年戦争の最初の段階のエドワードのフェイズはエドワード3世の名前が由来となっているように、百年戦争の開始から、エドワード体制のもとでイングランドがフランスに攻勢をかけ、フランスでの最大版図を築き、ブレティニー=カレー条約を結ぶまでの期間をいいます。

1340年にスロイス沖の海戦でイングランド軍がフランス海軍を壊滅させます。これによりイングランドドーバー海峡制海権を握りました。1346年のクレシーの戦いでもイングランドの長弓(ロングボウ)隊が、数で勝ったフランスの重装騎兵・弩(クロスボウ)隊を撃破しました。クレシーの戦いで、フィリップ6世は弟のアランソン伯シャルル2世の他、援軍となった神聖ローマ皇帝の父親のルクセンブルク伯ヨハンを失いました。同年にイングランドはカレー包囲戦を展開し、翌年にカレーを攻略します。カレーは百年戦争が終わった後も1558年までイングランド領でした。

こうした中、フランスでは1347年から1348年にかけて黒死病が大流行しました。カレーが占領され、黒死病も流行し、フランスは大混乱に見舞われ、こうした中で、フィリップ6世は1350年に死去し、彼の長子のジャン2世がその後を継ぎました。

南フランスではエドワード黒太子の指揮のもとで、1356年にポワティエの戦いが起こり、この戦いでイングランド軍はフランスを圧倒し、ジャン2世はこの戦いで捕虜となりました。1358年にはピカルディ、ノルマンディー、シャンパーニュなどのフランス北東部の農民が反乱を起こしました。この反乱をジャックリーの反乱といいます。この反乱を指導したとされるギヨーム・カールという人物で、パリで反乱を起こしたエティエンヌ・マルセルとの共闘を目指しましたが、ナバラ王カルロス2世の策に嵌り拷問され、処刑されました。指導者を失った農民たちは瓦解し、皆殺しにされました。

ジャン2世が捕虜となったため、フランスは王太子のシャルルが摂政を務めました。ジャン2世はエドワード黒太子に手厚い待遇を受けました、1360年にブレティニー=カレー条約が結ばれ、ジャン2世は次男のルイとの人質交換により解放されましたが、ルイが脱走したため、再びジャン2世が人質となり、1364年にジャン2世は虜囚のまま亡くなりました。

捕虜となった亡くなったジャン2世でしたが、エドワード3世から王位継承権を守ることには成功しました。この後のフランスの反撃に一役買っていると見るべきかもしれません。

シャルルのフェイズ

ジャン2世が亡くなったため、フランスでは摂政を務めていたシャルル5世が即位しました。シャルル5世は軍政と財政の強化に努めて、イングランドに奪われた失地の多くを回復します。

1364年にノルマンディー地方アルベック・コシュレル付近でフランス軍は、ブルゴーニュ公の継承権を争っていたナバラ王カルロス2世との戦うことになります。これをコシュレルの戦いといいます。フランスのベルトラン・デュ・ゲクラン指揮の元、数で上回るナバライングランドの連合軍を撃破しました。この戦いでナバラ王ブルゴーニュ公継承権から撤退します。

名将ゲクランは更に1370年のポンヴァランの戦いでイングランド軍を打ち破り、これまでのイングランドの不敗神話を打ち砕くことに成功しました。

1372年にはラ・ロシェの海戦でカスティーリャとフランスによる連合軍がイングランド軍を撃破します。百年戦争が始まったイングランドははじめて海戦でも敗北を帰しました。

1380年に賢明王と呼ばれたシャルル5世が亡くなり、シャルル6世が後を継ぎましたが、11歳で王位を継承したシャルル6世でしたが20代半ばになると精神病を患ってしまいました。シャルル6世は狂気王と呼ばれています。

これにより、シャルル5世の弟にあたるブルゴーニュ公フィリップ2世とその子ジャン1世のブルゴーニュ派と、シャルル5世の子であるオルレアン公ルイとその子シャルル、アルマニャック伯のアルマニャック派の間で対立が生まれました。

一方のイングランドエドワード3世が没すると、リチャード2世が王位につきましたが、リチャード2世の専制政治は諸侯や議会から反発を招き、ランカスター公のヘンリーによって王位を奪われました。

こうしてイングランドではヘンリー4世が即位し、ランカスター朝が成立しました。

ランカスターのフェイズ

イングランドとフランス国内でそれぞれ混乱が続いたのち、イングランド王位を手に入れたヘンリー4世の息子ヘンリー5世は尚も続くフランスの混乱に乗じて1415年にノルマンディーに侵攻しました。イングランド軍がカレーへと向かう途中にフランスの大軍がこれを向かい打ちます。これをアジャンクールの戦いといいます。

この戦いでイングランドはフランスに大勝し、オルレアン公シャルルが捕虜となりました。この戦いの結果、アルマニャック派は勢力を弱めて、ブルゴーニュ公ジャンが率いるブルゴーニュ派が権力を掌握することになりました。

権力を握ったブルゴーニュ公ジャンは王妃のイザボーと結託して、王太子シャルルを追放します。しかし1419年王太子のシャルルがジャンを惨殺、このため跡を継いだブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランドと同盟を結びました。

1420年、イングランドとフランスの間でトロワ条約が締結されます。この条約で、シャルル6世の死後、ヘンリー5世と王太子の姉にあたるカトリーヌが婚姻を結び、その子がフランスの王位を継承するというものでした。

王太子シャルルとアルマニャック派はこの決定に不服としましたが、このためイングランドは着実にフランスでの勢力を拡大していきます。1421年にはヘンリー5世とカトリーヌとの間に子供が生まれます。

1422年にイングランド王ヘンリー5世とフランス王シャルル6世が相次いで死去し、生まれたばかりのヘンリー6世がイングランド・フランス両国の王として即位しました。シャルル6世の子シャルル7世はこれを否認し、フランスは、イングランド王ヘンリー6世、ブルゴーニュ公フィリップ3世、ヴァロワ朝シャルル7世の三つの勢力が並び立つようになりました。

1428年、イングランド軍が南下して要衝オルレアンを包囲しました。1429年3月6日、シャルル7世の王宮のあったシノンに一人の若い女が訪ねてきました。ジャンヌ・ダルクです。

ジャンヌ・ダルク

ジャンヌ・ダルクは母国の軍を率いて勝利せよという神の声を聴いたとして、派兵軍への同行と軍装の着用を願い出ます。無学な農夫の娘に真剣に耳を傾けたシャルル7世はこれを許可します。1429年4月29日、ジャンヌは協力者のラ・イル、ジル・ド・レらとともにオルレアンに到着。

積極策を提案したジャンヌは、5月4日にサン・ルー砦、5月5日にオーガスタン砦、5月7日にトゥーレル砦を攻略します。5月8日にはオルレアン包囲戦を戦っていたイングランド軍は撤退しました。

ジャンヌはアランソン公ジャン2世の副官の地位に就くことをシャルル7世に願い出ます。シャルル7世はランスを奪還してシャルル7世の戴冠を実現させる勅命を与えます。

6月12日のジャルジョーの戦い、6月15日のモン=シュル=ロワールの戦い、6月17日のボージャンシーの戦いによりイングランドから領地を奪還、6月18日にはパテーの戦いでも勝利をおさめます。ランスへの進軍路にある各都市は抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、7月16日には遂にランスに到着し、翌日にシャルル7世は戴冠式を実現させます。

1430年に、ジャンヌはコンピエーニュ包囲戦の援軍として戦いましたが、ブルゴーニュ公国軍の捕虜となってしまいました。ジャンヌはトロワ条約に反し、フランス王位継承の正当性を揺るがしたとして糾弾され、その後1431年にジャンヌは異端審問により死刑判決を受け、5月30日にジャンヌの火刑が執行されました。25年後の1456年7月7日、復権裁判の結果ジャンヌは無罪を宣告され、1920年には聖列され、聖人のひとりになっています。

百年戦争終結

1436年、シャルル7世はブルゴーニュ公とアラスの和約を結びました。これにより、イングランドは孤立し、1437年にパリ、更にノルマンディーとギエンヌを奪還し、1453年にはカレーを除くすべてのイングランド勢力を駆逐しました。これにより116年にも及ぶ百年戦争終結しました。

最後に

今回百年戦争について触れたのは、この記事で少しだけ触れたジャンヌ・ダルクの協力者の一人、ジル・ド・レについての説明をする上で重要だと思ったからです。

救国の英雄の一人として数えられたジル・ド・レですが、後に錬金術や黒魔術に傾倒していき、1440年に絞首刑に処されました。