ドイツ革命――概要

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この記事の内容は、様々な資料をもとに書かれています。

内容の中には一部ないしは全体を通して、資料に基づく偏見や誤りがある可能性があります。また、筆者自身による偏見や誤りがある可能性も当然否定できません。

できる限り公平かつ事実に基づいて記事を書きたいと考えていますが、この点を踏まえていただけましたら幸いです。

今回のテーマはドイツ革命です。キールの反乱から始まり、ドイツの社会民主党と独立社会民主党との抗争、そして独立社会民主党から生み出された共産主義革命の首謀者たちの話です。この記事は2020年07月19日(日)に書いたものの転載です。

 

 

キールの反乱とユダヤ

第一次世界大戦は、連合国側がフランス、イギリス、ロシアという大国を中心にセルビアモンテネグロ、のちに日本、イタリア、ルーマニアなどが参戦します。

同盟国側はドイツ、オーストリアオスマン帝国ブルガリアを中心としていました。


今回の話は同盟国側のドイツを中心とした話になります。

1918年の9月にブルガリアが降伏し、10月にはオスマン帝国も降伏します。

10月24日、ドイツ海軍司令部はヴィルヘルムスハーフェンという港の艦隊に出撃の命令を出しました。28日から30日まで第三海軍中隊の一部の乗組員がこの命令を拒絶し反抗します。その後、魚雷艇が大砲を向けたことによって投降します。この時の事件をヴィルヘルムスハーフェンの反乱といいます。

これにより、作戦は中止になり兵士たちにたいしてキール軍港に引き返すよう命令しました。

投降した兵士の釈放を求め11月4日に第三海軍中隊の兵士と労働者たちの間でレーテが結成されました。

このレーテとは、ロシアでいうソヴィエトを意味する評議会のことです。

この評議会において14の要求を発行します。

一部を紹介しますと、

 すべての囚人と政治犯の釈放

 言論と報道の完全な自由

 メール検閲の廃止

 上司による乗組員の適切な扱い

 艦船や兵舎では同志に罰則を与えない

などです。

この11月4日の夕方までに、4万人にも及ぶ兵士や労働者があつまり、5日には銃撃戦に発展し、キールの町が制圧されていきました。一部の囚人が解放され、キール城には赤い旗が掲げられました。

兵士たちは労働組合や独立社会民主党社会民主党との緊密な連携をとっていました。

6日にノスケがキールに到着し、7日に町は正常化に向かいます。

この時の反乱をキールの反乱といいます。このキールの反乱からドイツ革命がはじまります。

反乱の中心メンバーはカール・アルテルトとローター・ポップという水兵です。あまり有名ではありませんが、少し見ていきましょう。

カール・アルテルトは1908年に社会民主党に、その後、独立社会民主党に入党しています。詩人でのちにドイツ共産党で活動するエーリッヒ・ワイナートと一緒に仕事をしていた経歴もあります。

ローター・ポップは1912年から社会民主党に参加しており、そこでアウグスト・ベーベル、ヴィルヘルム・リープクネヒトの影響を受けます。

話を少し脱線させますが、ヴィルヘルム・リープクネヒトの子、カール・リープクネヒトは後にスパルタクス団を結成する共産主義者です。

独立社会民主党社会民主党から分裂した政党です。

ユダヤ人のフーゴー・ハーゼが初代党首を務めています。党のアイコンから推測するにユダヤフリーメイソンリーの政党のようにも見えます。

のちに離脱したスパルタクス団の中心メンバーのカール・リープクネヒトもユダヤ人であると書かれた著作は多数存在しますし、ローザ・ルクセンブルクユダヤ人です。

この2人が後にベルリンにおける革命のキーマンとなります。

のちに合流する共産主義労働者団のパウル・レヴィもユダヤ人です。

アイコンの星はダビデの星の代替象徴であり、握手はフリーメイソンリーの秘密の握手を意味していると考えることもできます。

ソヴィエト連邦における星の意味も同じです。

労働者の上にユダヤ人が指導者となるという意味が込められています。

話を元に戻しますと、キールの反乱を契機にドイツ各地で次々と反乱が連鎖的に勃発しました。11月8日までにバイエルンハンブルクブレーメンハノーファー、ケルン、フランクフルトやルール地方などに波及しました。

11月9日に、共和政国家が成立し、プロイセン王国国王にして、ドイツ帝国皇帝のヴィルヘルム2世はオランダに亡命します。

11月11日にはハプスブルク家の皇帝カール1世がスイスに亡命し、ハプスブルク帝国が滅亡しました。

翌年の1919年にパリ講和会議が開かれ、ヴェルサイユ条約が締結されます。以後の世界の体制をこの条約からヴェルサイユ体制と言います。

話が前後しますが、すでに11月7日にバイエルン革命が起こっており、バイエルン王ルートヴィヒ3世の退位が強行され、評議会が権力を掌握します。

これによりにバイエルンにレーテ共和国が成立しました。バイエルン・レーテ共和国はロシアに次いでユダヤ人が指導者となった国家です。

以前にも紹介した通り、共産主義がドイツの反ユダヤ主義を生み出したと言っているユダヤ人ラビは多数存在します。

ユダヤ人によって第一次世界大戦が敗北したという考えが、一連のドイツ革命から言われるようになり、「背後の一突き」などという言葉で表現されています。

軍の反乱に乗じてユダヤ人の共産主義者が内乱へと導いたというのは、ロシア革命と流れが非常によく似ています。

ロシアのボルシェビキの革命家たちは、スパルタクス団とも面識があります。トロツキールクセンブルクを非常に高く評価しています。ロシア革命ユダヤ人のフリーメイソンの支援をうけていたと考えるべきでしょう。

実際にボルシェビキの革命家たちはユダヤ金融資本家からも支援を受けています。

おそらく、イギリスやフランスなどの連合国側のユダヤ人の支援も大きかったことでしょう。

実際に1817年のロイド・ジョージ政権下で、イギリスからロスチャイルド家に手紙が送られ、現在はそれをバルフォア宣言と呼んでいますが、イギリス政府はユダヤ資本、ロスチャイルドの力を借りていたわけです。

当時のフランスの首相クレマンソーは過去にドレフュス事件ユダヤ・コミュニティを擁護している過去があります。

このドレフュス事件での彼の行動が、後にクレマンソーを首相へと押し上げたとも考えられます。

ベルリンと共産主義

11月7日にバイエルンでクルト・アイスナーが王政を打倒したことから、ドイツ帝国の諸君主は退位を余儀なくされました。(バイエルンについては後ほど紹介します。)

ベルリンでは、11月9日にマクシミリアンがヴィルヘルム2世の退位を宣言し、政府は社会民主党の党首であるフリードリヒ・エーベルトに委ねられました。

社会民主党のフィリップ・シャイデマンはカール・リープクネヒトがドイツ社会主義共和国樹立を計画していることを知り、機先を制してドイツ共和国を宣言しました。

人民委員評議会は社会民主党エーベルト、シャイデマン、オットー・ランツブルクと独立社会民主党フーゴー・ハーゼ、ヴィルヘルム・ディットマン、エミル・バースの6人で運営されました。

また、時を同じくして大ベルリン労働者と水兵の評議会が樹立されます。社会民主党と独立社会民主党で構成されていましたが、しだいに独立社会民主党の左派革命的オプロイテ(スパルタクス団)が評議会を主導するようになり、ソヴィエト・ロシアへの意識が高くなっていきます。

12月23日、ベルリン王宮を占領していた独立社会民主党の影響力が強い人民海兵団を武装解除しようエーベルトが軍を派遣しますが、人民海兵団によって撃退されます。人民海兵団は解散される1919年3月まで、共和国軍であるにも関わらず、革命派の側に立って動いています。

23日の人民海兵団事件を理由に12月29日に独立社会民主党は人民委員評議会を離脱します。これに代わってグスタフ・ノスケとルドルフ・ウィッセルが追加で参加することになります。

ここからは社会民主党の人民委員評議会、独立社会民主党の大ベルリン労働者と水兵の評議会という二つの対立した委員会が並列される形になります。

12月30日に、独立社会民主党左派のスパルタクス団を中心にローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトを中心に党を離脱し、共産党を結成します。

この時にルクセンブルクに迫って共産党を結成させたのが、ロシアからドイツに侵入していたユダヤ人のカール・ラデックです。ロシア革命とドイツ革命は連動していたのです。

1919年1月5日に独立社会民主党員の警視庁長官が辞任させられたことをきっかけに、スパルタクス団が蜂起します。これに対して社会民主党のノスケは1月9日にドイツ義勇軍、フライコールを派兵し、15日に鎮圧し、リープクネヒトとルクセンブルクを殺害します。

1919年1月19日、社会民主党は国民議会選挙を実施され、社会民主党が第一党となり、対照的に独立社会民主党は惨敗してしまいます。2月6日にヴァイマルで国民議会が開催され、エーベルトが大統領に、シャイデマンが首相に就任します。

1919年8月に当時最も民主的とされたヴァイマル憲法が制定されます。ヴァイマル憲法ユダヤ系ドイツ人のフーゴー・プロイスを中心に草案がまとめられ、修正をへたのちに公布されます。ヴァイマル憲法日本国憲法に多大な影響を与えていると言われています。

もちろん日本国憲法との比較でも言及され、リベラル派あるいは左派による政権批判などでも登場します。また、ユダヤ人が中心となって作られていることから、ユダヤ思想の影響が強いとも言われています。ユダヤ民族の解放を目的としている部分があるとの指摘もあります。

バイエルン共産主義

ベルリンにおいては、ユダヤ人を中心とした共産主義革命は失敗に終わりましたが、バイエルンでは政権を獲得することに成功します。

バイエルン王国では11月7日に首都ミュンヘンにおいてユダヤ人で独立社会民主党のクルト・アイスナーが共和政府の樹立を宣言しています。

アイスナーは1918年にデモを扇動した罪で反逆罪を宣告されていました。革命直前の1919年10月に刑務所から釈放されると、直ちに革命を決行します。

評議会において暫定首相に選出され、社会民主党と独立社会民主党からなる臨時内閣を組織しました。

アイスナーは社会民主党と穏健派の独立社会民主党を上手く取り込みベルリンとは異なる戦略で革命を成功させます。

ミュンヘンにあるテレジエンヴィーゼの広場で大規模な集会を行ったのちに、ミュンヘンをデモ行進しました。

これに危険を感じたルートヴィヒ3世は家族とともにミュンヘンを脱出し、オーストリアザルツブルク近くのアニフ城に非難しました。

革命政府は12日にアニフを訪問し、ルートヴィヒに退位を迫りアニファー宣言をさせます。ルートヴィヒは退位を拒否しましたが、アニファー宣言は退位を宣言したものと解釈されます。

アイスナーは社会民主党の要求に譲歩してきた結果もあり、1月12日の選挙で大敗します。

更に大戦時の公文書を公開したことにより不信を買います。2月21日、ユダヤ系のアルコ・ファーライによってアイスナーは暗殺されました。この結果、バイエルン無政府状態に陥りました。

このような混乱のなか、4月6日に、無政府主義者のグスタフ・ランダウアーと独立社会民主党の劇作家エルンスト・トラーとアナーキストで劇作家のエーリッヒ・ミューザムらが中心となって革命を起こします。もちろんこの3人もユダヤ人です。

トラーはこの革命を「愛のバイエルン革命」と表現しました。トラーを主席としたこの政権は政治家の集まりではなかったこともあり、4月12日にはあっさりと打倒されます。

この政権を打倒したのは、ロシア出身の共産党員、オイゲン・レヴィーネです。ここで初めてレヴィーネはプロレタリア独裁を宣言します。レヴィーネはアイスナー政権やトラー政権と比較しても強硬姿勢を貫いたため、モスクワのボルシェビキ政権はレヴィーネ政権を高く評価しています。もちろん彼もユダヤ人です。

この政権のバイエルンを第二レーテ共和国ともいいますが、この第二レーテ共和国では、あのアドルフ・ヒトラーが評議会の大隊副代表となっています。

第二レーテ共和国においてレヴィーネは工場の国有化、紙幣の廃止、教育制度の改変を目指しました。赤軍を組織し、これに反対するものは拘束しました。

これに対してスパルタクス団を鎮圧し、ベルリンの共産主義を一掃していたドイツ国の大統領のエーベルトは第二レーテ共和国の討伐に乗り出します。

グスタフ・ノスケによってヴァイマル共和国軍とドイツ義勇軍が組織され、5月2日にこれを制圧しました。レヴィーネは13日に拘束され、6月4日に死刑判決を受け、翌日には銃殺刑に処されました。

こうしてベルリンおよびバイエルンにおける革命、キールの反乱からはじまりやがてユダヤ人を中心とした共産主義革命へと転じていったドイツ革命は幕を閉じました。

ヨーロッパにおける共産主義

ロシア革命レーニン以下のボルシェビキ政権により始まり、やがてロシア内乱へと発展し、ソヴィエト連邦が樹立され、ゴルバチョフ政権までおよそ70年という長きにわたって共産主義国家を維持しました。

ドイツでの共産主義革命は、短期的にバイエルン・レーテ共和国が成立したものの失敗に終わりました。

ロシア、ドイツ以外でもハンガリーを始めとして東欧ではユダヤ人を中心とした共産主義者の活動は続きました。第二次世界大戦後、ロシア革命やドイツ革命とは異なりユダヤ人による直接の指導という側面は弱まりましたが、東欧は完全に赤く染め上げられました。

ドイツではこの後、ドイツ労働党ヒトラーが台頭し、1920年には、国家社会主義ドイツ労働者党が成立しました。

この一連の共産主義革命の一つの結果として、反ユダヤ主義、反共産主義ナチス・ドイツの思想の核をなすようになりました。

これ以降の話はまた後に論じるとして、私たち日本人はほとんど、ドイツ革命がどういったものなのかを知らずにいます。もちろんロシア革命についてもほとんど知られていません。

学校も、またメディアもこれを国民に知らせるためには存在していません。それとは逆に、日本人にこのような事実があったことを知られないようにするために存在しているのです。

しかし、私たちは知る必要があります。知らなければ、次には進めないでしょう。まずは、知ることから始めなければなりません。

もう少し、細かくやりたいのですが、時間がかかる上に、一記事あたりの情報量が硬すぎるので、今回はこんな感じで終わりにしたいと思います。のちのち分割してまとめたいとおもいます。

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最後に

最後までお付き合いいただきありがとうございました。ご感想などありましたら、気軽にコメントください。